「平等」という観点



 新聞やテレビで、大阪市長橋下徹氏の得意満面、意気揚々といった姿を見るたびに、なんとも暗い気持ちになる。 先日書いた通り、上意下達への強い意識には恐れ入るほかない。日の丸君が代の強制には、世間で言われ、私自身も今まで(例えば、2010年6月15日、2011年6月23日)に指摘してきたような問題があるのだが、今日は、それらとは少し異なる「平等」との関係を考えてみよう。

 橋下氏の得意満面、意気揚々の背後には、自分は民意を受けてやっている、自分は信任されているのだという意識が明らかにある。「上」は民意によっているのだから、「下へ」が許されるのは当然だ、「上」の命令に従わない「下」は、世の中全体に逆らっている悪いやつだという考え方である。得票率59%で勝ったからと言って、よくここまで自信満々になれるものだと思う。私は「民主主義」について、考え方の違いではなくて、根本的な誤解があると思う。もっとも、橋下氏は弁護士なのだから、私がこんなことを言うのは不遜かも知れない。しかし、私には、むしろ、弁護士がそのような考え方をすることが大問題だ。

 民主主義が成立する前提が、自由と平等であるというのは、多分、定説と言ってよいだろう。基本的に人は何をしてもよく、一人一人に価値の違いはない。だからこそ、いろいろな意見が出て、その中から最善の選択が為されもするし、問い直しも行われる。「何をしてもよい」と言えば語弊があるかも知れない。いかにも「好き勝手」が許されるという雰囲気である。しかし、「好き勝手」をした結果として、人の利益や自由を侵すことがあれば、それは平等に反するので、平等という前提を守れば、「好き勝手」には自ずからブレーキが掛かり、問題は発生しない。

 ところが、私たちは、便宜的に国なり県なり市町村なりという集団を作って生活している。必ずしも「平等」という絶対普遍の価値観を尊重してはくれず、人の利益や自由を奪うことで、自分だけがいい思いをしたいという人がいるから、そういう存在に組織的に対抗しようというのである。集団は外に対して自分たちの利益を守ろうと機能するが、内部においてもまた、一定のルールの下で構成員同士の利害を調整し、それぞれの利益を守ろうと機能する。そうして生まれるのが「権力」という虚構である。

 とは言え、ルールは少ない方がいい。各自が自分の欲望を遂げる一方で、平等を保とうと自制するのが理想である。しかし、その理想が崩れ、あまり深い思慮もなくルールが作られるようになると、自由だけではなく、平等までもが保たれなくなってくる。それは、例えばこういうことだ。

 自分たちの組織の色を「緑」にし、いろいろな所に緑を付けることにしようという人々と、「赤」にしようという人々がいた。それぞれに理由はあるのだが、基本的には好き嫌いの問題に過ぎず、理由で決着がつくというほどのものでもない。構成員100人で投票した結果、緑が51人、赤が49人だった。もちろん、多数決の結果は尊重され、「緑」を組織の色にすることになった。緑派はもちろん、喜んで緑をあちこちに付けたが、赤派だった49人の中には、それを嫌がる人もいた。すると、警察(に相当する役員)が緑の何かを付けるように指導を始めた。決まった以上やむを得ないと考えて付ける人もいたが、最後まで拒否する人もいた。

 この例の問題は何か?それは、「平等」の崩壊である。緑派の人間が優位に立ったのは、それが「正しい」意見だからではない。いわば偶然である。にもかかわらず、緑派は尊大な態度で、赤派に緑を強制し、みんなで決めたのに、なぜ嫌がるのだと迫る。一方、赤派は、たまたま少数派になってしまったばかりに、抑圧されることになり、好きでもない緑を付ける羽目になる。つまり、もともとそれらの意見に優劣がなかったとしても、多数決の後には、強弱の関係が生じ、平等は崩れたのである。

 投票する権利は平等にあったのだからいい、というものではない。世の中の決定の中には、税制のように、決めざるを得ない、決めた以上は全ての人が従わなければならないという性質のものがある。緑か赤かの決定は、どうしても必要なことだったのだろうか?もちろん、これは架空の例であって、背後の事情など想定していないのだから判断できないが、仮に本当に好き嫌いというレベルの問題だったとすると、それは決める必要がないものだったのだ。決めることによって、もともと平等だった二つの意見に優劣がつき、強者と弱者、すなわち抑圧者と被抑圧者が誕生し、「平等」という大前提が崩れるとともに、片方の意見の人間は「自由」を失ったのだ。私はかつて、「自由」と「平等」を関連するとはいえ、別の二つのものと考えていたが、橋下氏の言動について考えていて、実は今まで以上に密接に関係するものだと思うようになった。

 ここから、私たちは、「多数意見による決定」を重大視し過ぎてはならない、決めたからと言ってむやみに強制してはならない、決める必要のないことを決めてはならない、といったことを導き出す必要がある。まして、多数決の論理で支持されているのだから、何をしてもいいなどということがあるわけがない。君が代問題は、多く精神の「自由」との関係で語られるが、「平等」という観点も、実は忘れてはいけないのではないだろうか。


(補足)上と直接関係するわけではないが、ついでに書いておく。

 3月4日『朝日新聞』に、学校に競争原理を多く持ち込んだ10年来のアメリカの教育改革に強い批判がわき起こっているという事例を紹介しながら、橋本流教育改革とアメリカの事例の一致点が多いことを指摘する記事が載った。これは大変よい記事である。しかし、「人間」というものを見つめ、「教育」によって目指すべきものは何かということを掘り下げて考えれば、それらのやり方が破綻するのは当たり前。むしろ、そんなやり方が上手く行くと思って始める方がおかしいので、少し情けなくなってくるのも確かだ。