鳥の歌



 昨日の続きのように、「トヨタ・マスタープレイヤーズ・ウィーン」の演奏会のことを書いておこう。

 演奏会プログラムに先立って、「献奏」と称してカザルスの「鳥の歌」が演奏され、そのまま黙祷となった。仙台と盛岡の演奏会だけの措置らしい。

 この選曲は、ある意味で素晴らしい。「鳥の歌」というのは、もともとスペイン・カタルーニャ地方(バルセロナとその周辺)のクリスマスソングで、それを前世紀の偉大なるチェリストパブロ・カザルスが編曲したものである。カザルスは「カタルーニャの鳥たちは、ピース、ピースと鳴きます」と語って、ホワイトハウスや国連総会で演奏し、この曲を平和を希求する象徴にしてしまった。

 鳥の鳴き声を描写しているようには決して聞こえない。なんとも深い哀しみに満ちた曲相である。そのつもりで聴けば、その深い哀しみの中に、祈りとそこからの脱出への願いが聞こえてくるようにも思う。震災の後、コンサートでは、たびたび冒頭でバッハの「アリア」管弦楽組曲第3番の第2曲。ヴェルヘルミ編曲「G線上のアリア」としても有名)が演奏されたということは耳にしていたが、「鳥の歌」は聞いたことがなかった。しかし、祈りの他に「哀しみ」が満ちているという点で、「アリア」よりも「鳥の歌」の方が、はるかに追悼曲としてふさわしいと思った(原曲はクリスマスソングなのに、どうしてこうなるのかな?)。

 しかし、今回の演奏会で初めて「鳥の歌」を耳にしたならともかく、昔からこの曲とカザルスという人物について、多少の知識を持っていた者には、もう少し複雑な思いがわき起こってくる。カザルスがこの曲について「ピース」と言った時、その心の中には、フランコに自由を奪われたスペインや、スペインに独立を奪われたカタルーニャのこと、更には、いまだに世界各地で行われている戦争と為政者による抑圧とがあったはずなのである。カザルスにとって、大切なのは人間の独立と自由であり、自然災害の脅威ではない。もちろん、「もともと」を離れて意味を含んでいくことは、その音楽が普遍性を持っている証拠なので、決して悪いことではない。ただ、そのような事情が分かっていると、どうしても私の心の中に浮かんでくるのは、東日本大震災ではなく、「選挙で選ばれた独裁者によって厳しく管理される」あの「大阪」なのである。「鳥の歌」は苦しかった。