1週間ばかり、更新が滞った。その間に、ずいぶん春らしくなった。先週の半ば、20℃くらいまで気温が上がったからだろうか?今日、我が家の水仙が1輪、花を開いた。そういえば、あっと言う間に野菜の値段が下がった。
今年の冬は本当にひどかった。私は、農産物の値段が他のものと比べて安すぎる、価値を表していない、と文句を言っている人間なので、キャベツやレタスが450円となれば、健全な値段に近づいているなぁ、と感じるはずなのだが、いかんせん、450円出してもまともなキャベツが手に入らない、食べるのが気の毒なような、小さくしなびたキャベツしか売っていない、というのは驚きだった。白菜1個800円超というのは、さすがに値段そのものにびっくり。もっとも、それでも丸まま1個売っているのを見られるだけで稀少であり、大抵の店では、葉の密度の甚だお粗末な白菜を、4分の1に割って200円くらいで売っていた。おかげで、せっかくの餃子シーズンに、我が家でさえ餃子を作ることができなかった。近未来の八百屋(スーパー)はそうなるのではなかろうか?と思っているのだけれど・・・。
それが正に一気に、ほとんど「値崩れ」状態である。しかも、質がいい。気候のせいなのだろう。やっぱり偉大だな、お日様。
話は変わる。
昨日は、仙台フィルの第317回定期演奏会に行っていた。首席指揮者パスカル・ヴェロの退任演奏会で、チケットは早々と売り切れ。私は確か、偶然にも、ヴェロの退任が発表される直前だったかに買っていた。
ところが、私は生まれて初めて、会場でチケットを自宅に忘れてきたことに気付いた。机の上に持って出ようと思っていた本が2冊あって、そのうちの1冊にチケットを挟んだのだが、出発の段になって、重いから1冊だけにしようと思い、うっかり、チケットを挟んでいない方の本だけを持って出てしまったのだ。
経験がなかったのだが、まさかそれだけで入場拒否はないだろうと思い、窓口でその旨告げると、すぐに確認してくれて、臨時の入場券というのを発行してくれた。ちゃんと「仙台フィル入場券(臨時)」と印刷され、演奏会名や日時、席番などを手で書き込めるようになった定期演奏会の本当のチケットと同じ大きさのチケットが用意されているのだ。今回の私のような人間がけっこういる、ということなのだろう。
もっとも、私の場合は、年に3回の「オープン会員」ということになっていて、仙台フィル事務局でチケットを発行してもらうので、仙台フィルのPCに、席番まで含めて発券記録が残っている。だから、確認は容易だったわけだ。街のプレイガイドや、チケット・ピアあたりで買った場合、その人が本当にチケットを買ったかどうか、何番の席かは確かめられないだろうから、どうするのかは分からない。ともかく、珍しい体験をさせてもらった。
さて、ヴェロの退任記念演奏会のプログラムは、サティの「グノシエンヌ」3曲+「ジムノペディ」3曲、ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」、「ラ・ヴァルス」、「ボレロ」であった。このうち、「グノシエンヌ」は第1番と第2番がピアノ、第3番はプーランク編曲による管弦楽版、「ジムノペディ」は第2番だけピアノ、第1番と第3番はドビュッシー編曲による管弦楽版での演奏だった。ピアノ独奏は横山幸雄。ヴェロ信奉者(ファン)でも何でもない私が、早くからこの演奏会のチケットを確保していたのは、主にダンディが演奏されるからである。
ヴァンサン・ダンディ(1851〜1931)については、以前、私が研究対象としていた中国人音楽家の留学先の師匠として、私の論文で触れたことがあるのである。今回のプログラムの解説でも、「近代フランスの重要な作曲家のひとりである」と紹介してあるが、その作品で名前を耳にすることがあるのは、この「フランスの山人の歌による交響曲」だけであろう。作曲家としてよりは、むしろ音楽界の指導者として重要な位置を占めている、というのが私の評価である。フランス人作曲家に作品演奏のチャンスを与えようと「国民音楽協会」なる組織を立ち上げて運営したり、スコラ・カントルムという音楽学校を作って校長を務め、古典的、基礎的で堅実な音楽教育を提供しようとしたりした。スコラ・カントルムという学校は今でも存続している。彼の元からは、多くの優れた作曲家、演奏家が育った。
「山人」は、論文を書いていた時に買ったCD(アントニオ・デ・アルメイダ指揮アイルランド国立交響楽団+フランソワ・ジョエル・ティオリエ独奏)で聴いたことがあった。「交響曲」と名付けられてはいるものの、実際にはピアノ協奏曲である。ところが、何しろ会場が青年文化センターだ。フルオーケストラの演奏会をするには狭く、残響豊かで、音が会場内に飽和してしまう。協奏曲を演奏すると、独奏パートが飽和した音に埋没してしまって聞こえない、という現象がしばしば起きる。昨日も同様であった。ところが、ピアノが聞こえにくくなると、「交響曲」というタイトルが実にふさわしく見えてくる。もしかすると、ダンディが想定していたこの曲の響きというのは、こんな感じだったんじゃないのかな?だから「交響曲」と名付けた?そんな思いが兆してきた。(続く)