「だから」と「なので」



 国語の教員をしているから、というわけではないと思うが、人々の使う日本語が気になる。前々から嫌だなあと思っていたのは、「〜させていただく」というバカ丁寧な謙譲語の氾濫である。職員会議でも、「先日説明させていただきましたとおり・・・」などと言う人が少なくない。なぜ「説明しましたとおり」でダメなのだろう?思うに、これは社会全体が形式主義的になっていることの表れか、やっていることの図々しさをごまかすためか、人間関係が希薄になっている結果、慇懃無礼によって無難な人間関係を作っていこうとしているからかなのではないだろうか?

 もう一件、最近、私にとって新たに大きな問題となっているのが、接続詞「なので」の増加である。生徒の作文を見ていると、引き起こされた結果を述べる文の冒頭が「なので」になっているものがとても多い。文章の中だけではない。意識して聞いていると、教員の言葉や授業中の問い掛けに対する生徒の答えといった、やや格式張った会話の中でも同様だ。つい先日、NHKのアナウンサーが、番組の中で「なので〜」と言っていて驚いた。私の感覚では、「だから」でなければならない。

 とは言ってみたものの、なぜ「だから」はよくて「なので」はダメなのか、と聞かれると、答えに窮するような気がしたので、自分なりに落ち着いて考えてみた。そして、やはり、「なので」は間違いだと思う。多分以下のような理屈だ。

 もともと「だから」の「だ」は、断定の助動詞または形容動詞活用語尾の終止形、「なので」の「な」は、同じ品詞の連体形である。

 「彼は勉強家だから、成績が非常によい。」というのは短文だが、仮にこれがもっともっと長い文だった場合、文を二つに分けたくなる。例えば、この例文で言えば、「彼は勉強家だ。」と「成績が非常によい。」である。もちろんこれらは因果関係になっているので、それを示すための接続詞が必要になる。「彼は勉強家だ。から成績が非常によい。」と言えればよいが、「から」は付属語であるため単独では使えない。「だ」も付属語だから、「だから」でもダメなのだが、「だから」と書けば、「(勉強家)だから」と、「だから」の前に「勉強家」を容易に補うことが出来るので、ただの「から」に比べると分かりやすい。やがて、「だから」が一つの独立した接続詞として定着し、「彼は勉強家だ。だから成績が非常によい。」が誕生する。

 一方、「彼は勉強家なので、成績が非常によい。」という文を二つに分けると、上とまったく同じく、「彼は勉強家だ。」と「成績が非常によい。」になる。接続詞として、「なので」を使うと、「彼は勉強家だ。なので成績が非常によい。」となる。

 「だから」の「だ」が「勉強家だ」の「だ」を明瞭に受けているのに対して、「なので」は「だ」が「な」に変化することで直前を受けていることが明瞭でなくなり、それによって「分かりにくい」と感じられる。「分かりにくい」が言い過ぎであれば、「だ」と「な」のズレが違和感として感じられる、と言ってもよい。「彼は勉強家な。なので成績が非常によい」と出来れば問題はないが、「な」が連体形であるため、このような日本語はもちろん成り立たない。

 というわけで、「だから」も「なので」も独立した一つの接続詞だと考えれば、まったく同じ使い方が出来るはずだが、成り立ちとして、文の冒頭に連体形「な」を置く「なので」の形は、少なくとも現時点では「間違い」と言った方がよいと思う。「なので」は文の途中でのみ使うことが許されるのだ。

 しかし、なぜ年々人は「なので」を使うようになっているのだろう?これはなかなか難しい問題であって、私にもこれという決定的な答えが見出せない。しかし、意味の違いがまったく無いとなると、耳で聞いた時の印象、言葉の響きという問題で考えるしかない。「だから」よりも「なので」の方が、響きは多少穏やかでぼんやりしている。おそらくは、「〜させていただく」と同様、希薄な人間関係の中で、図々しさをごまかし、無難な人間関係を作っていくために、穏やかな響きの「なので」が歓迎されるのではないだろうか?