ガレキの広域処理はもったいない



 ガレキの広域処理が問題となっている。一刻も早く処理して、復旧を加速させたい被災地では、自分たちによる処理が追いつかないので、ガレキを全国に運んで処理しようとするが、放射能汚染への心配から、受け入れてくれる自治体がないという。つい先頃、石巻のガレキを、受け入れを検討している北九州市で試験焼却しようとしたところ、抗議団体によって搬入が妨害されたという出来事もあったから、住民の中に根強い反発があるのだろうと思う。

 沖縄と同じだな、と思う。沖縄の基地負担を減らすべきだとは思うが、自分の町に米軍が来るのは困る。ガレキを処理して、被災地が早く復旧すればいいとは願うが、そのしわ寄せが自分の町に来るのは困る。他人事であってこそ、基地の撤去や復旧を叫ぶことも出来る、ということだろう。

 と書けば、いかにもガレキの受け入れを拒んでいる他の町を非難しているようだが、それは半分正しくて、半分正しくない。そもそも、私はガレキの広域処理に反対なのである。

 ガレキを処理することは必要だ。しかし、今行われようとしているやり方は、あまりにも見境がない。石巻市内でも、半月ほど前から、仮設焼却炉による処分が開始されたが、なぜその熱を利用できる形にしなかったのだろう?なぜ、膨大なエネルギーを使って遠くまでガレキを運ぶのだろう?あれば目障りで、多少の環境悪化にもなるが、放置することそのものが不可能というレベルには見えない。5月21日の『朝日新聞』「記者有論」(宮古支局長伊藤智彰氏)によれば、岩手県宮古市から東京にガレキを運ぶと、輸送費が1トンあたり15000円かかり、処理費の4分の1が輸送費ということになるらしい。

 国が膨大な借金を抱えていて、消費税増税すら行われようとしている時に、それだけのお金を使うことも問題だが、私には、それによって余計なエネルギー(石油)を消費することの方が、はるかに重大な問題に見える。二酸化炭素排出の問題もあり、エネルギー資源の問題もあるからだ。

 以前にも書いたことがあるが、私は、人々の中にある、お金を払って買った石油は自分で自由に使ってよいという発想が根本的に間違いだと思っている。石油は燃やしてしまえばそれで終わり、絶対に再生しない。付けられている値段は便宜的なものであって、基本的には人類の共有財産だと思う。空気中の二酸化炭素を固定して、石油と同等の使い方が可能なバクテリアの研究も進んでいるとは聞くが、すぐに実用化される気配はない。代替エネルギーが未開発のまま、石油が枯渇したら、いや、供給量が半分になったら、値段が倍になったら、日本の社会がどうなるかということは意識しているべきだろう。

 目的のためにも手段は選ばなければならない。ガレキは、一刻も早く消滅させることが必要なものではない。それを、どのように有効利用するのか、どうすれば環境やエネルギー問題へのダメージを最少限に出来るのか、もっとゆっくり考えて、総合的に最善の方法を目指すべきである。

 「記者有論」は、岩泉町長や田野畑町長の「ゆっくり地元で処理し、雇用や経済に貢献して欲しい」という言葉を引き、県主導で進む復旧作業が、地元の意向を反映していないがために問題を引き起こしていると説く。それもまた、一つの重要な観点だ。被災地の人々も、目の前のガレキが消えるということだけに目を奪われてはいけない。ガレキを他の所に持っていくことは、地元の利益を手放すことにもなっているのである。