いじめは増え続けるさ



 大津市での事件をきっかけに、今改めて「いじめ」についての議論がかまびすしい。一昨日だったか、大津市の事件について第三者による検討委員会が発足したという。いじめを今後再発させないためにどうすればよいのか、検証・検討を進めるという。

 いじめが何故起きるかについての私の考えは、このブログの昨年12月12日の記事を見ていただけるといい(→こちら)。今でも考えは変わっていない。本質的に弱くて努力の出来ない怠惰な人間が、手っ取り早く優越意識を持つために行うものだ。

 私は社会全体の構造的な問題として、いじめは増える要素しかないと思っている。根っこにあるのは、易きに流れる人間の性質の上に乗った商業主義だ。あらゆる場面で便利になり、自分が望んだものはすぐに手に入らないと(実現しないと)気が済まない。我慢というものが尊重されない。教育の場でさえ、正しさよりもいかに利益を得るかという観点が幅をきかす。つまり、人間はどんどん気が短く、我慢が出来なく、打算的になっているのだから、正しい生き方を求めて自分の弱さに目を向け、自分と向き合う、などということにはなりようがない。

 「温故知新」という言葉は、もちろん私も知っているが、知れば知るほど、まるでその言葉が遠ざかっていくかのように、実行の困難さが思い知らされるばかりで、あまり安易に唱える気にはならない言葉だ。

 いじめが起こってしまった後の検証は、大津波が来た後に、その原因を分析するのと同じ、ただの「学問」である。しかも、大抵は問題となっている事件と、直接の因果関係が証明されることしか問題とはされない。しかし、上に書いた通り、いじめは社会全体のひずみとして発現しているだけである。根っこの所にあるもの、そして社会全体に手を加えるという、歴史の法則に逆らうようなことをしない限り、どうなるものでもない。

 おそらく、第三者委員会による検証の結果、事件の直接のきっかけとなったような「部分」の問題だけが指摘され、それに基づいて対策が取られた結果、何かを「やった」というパフォーマンスと一部の自己満足、そのための教育現場の多忙と徒労感、そして更なる状況悪化への悪循環が起こるばかりである。無根拠な平居の妄言と言ってはいけない。例えば、「教員の質の低下」が問題となった結果、教員免許更新制の導入、研修の充実(大幅増加)、教員評価制度の強化といった対策が取られたが、それらによって教員の質が改善された、もしくはそれらの対策が生んだデメリットよりもメリットの方が大きい、と考える人がどれだけいるだろうか?少なくとも、教員の世界では極めて少数だろう。どんな問題を例にしても同じだ。

 本当にいじめをなくしたければ、少なくとも高校生までには「楽」をさせないことに尽きる。ゲーム機や携帯電話を持たせない、親が子どもを車で送迎するのは禁止、親は子どもが自らすべきことを取り上げない、テレビは一家に一台で十分、アダルトビデオなど論外、紙と鉛筆と本を使って勉強させる、古いものを直しながら大切に使う、使い捨ては医療器具に限定、家の手伝いでもいい、体を使って労働させる、下手に「ケア」などせずに我慢させる、プライバシーを制限し、個室を持たせない・・・、そういうことこそが、迂遠ではあるけれども本質的な、「いじめ」を無くすただ一つの方法だ、と私は思っている。