「国民栄誉賞」が何か分かった!



 長嶋茂雄松井秀喜国民栄誉賞を受けるという。これで、この賞が一体何なのかが非常に分かりやすくなった。いろいろと言われているとおり、この二人の実力が他を圧倒していたということはない。金田正一であれ、野村克也であれ、イチローであれ、この二人以上の実績を残した野球人は決して少なくない。その中で、なぜこの二人かというと、それは実力ではなく、人気があったからだということにしかならない。そう、国民栄誉賞は、「栄誉」もしくは「実績」があるのではなく、「人気」がある人に与えられるのである。両者は、一致することもしないこともある。

 過去の受賞者などを見ていると、文化人は、スポーツ以上に分かりにくい。例えば音楽関係者では、美空ひばり藤山一郎服部良一吉田正遠藤実と続く。小澤征爾内田光子有田正広鈴木雅明といったクラッシック分野の人は入らない。小澤征爾文化勲章を受けているから、文化勲章国民栄誉賞との関係も難しくなる。だが、「長島・松井基準=人気」ということを考えると、大衆的歌手、大衆的作曲家には国民栄誉を与え、それ以外の、実力はあるが国民的知名度(人気)はイマイチという人には文化勲章を与える、という使い分けがよく納得できる。

 ノーベル賞学者には、必ず文化勲章が与えられるが、国際的栄誉であり、日本人の名を高めたにもかかわらず、国民栄誉賞は一度も与えられていない。国民栄誉賞の目的は、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」だから、学問が対象になっても構わないはずだが、学問は対象としないということが、明文化されていないルールとして存在するのだろう。

 今回の「長島・松井基準」によって、何事かに本気で打ち込み、本当に優れた実績を挙げた人は、この賞を素直に喜べなくなったのではないか?人気と実力は関係ない。実力で賞に値しても、結局マスコミがどれだけ騒ぐかによってしか評価してもらっていない、という気分になりかねないからである。実力があろうがなかろうが、人々が自分を評価してくれるのは、それだけで十分に「栄誉」だと考えるかどうか?一流の人ほど、そうは考えないのではあるまいか?

 参議院議員選挙へ向けての、自民党政権の人気取りということがよく言われている。本当か嘘かは知らない。だが、自民党が、長島や松井に国民栄誉賞を与えれば、参議院議員選挙で票が取れると踏んでいるなら、国民も馬鹿にされたものである。もっとも、国民の側に、政治家に馬鹿にされるだけの実績があるから困る。