環境問題解決のための机上の空論(3)



 温暖化対策の実行を机上の空論に止めている要因の一つは、各国の連携・合意を作ることの難しさである。どの国も、他の国に先駆けて「損」はしたくない。何とかして少しでも自分たちが二酸化炭素を減らさずに済む方法ばかり考える。だから、話はまとまらない。この点について、私の考えは単純だ。合意など作る必要はないのである。他国に先駆けて、日本が実行すればいいのである。特に、日本の場合、一人当たりにすると世界でも五指に入る二酸化炭素大量排出国なのだから、責任上も当然という気がする。

 日本という国が、昨日までに私が書いてきたような方向で進まない中、個人でできることには限度がある。私くらい自家用車を使うことに罪の意識を感じている人間でも、今の生活でそれを手放すことはできない。社会の仕組みが、そうなっているからである。だが、国単位でなら、独自に実行することが可能だ。問題があるとすれば、それによって当面「エネルギー亡命」とでも言うべき出国者が増えるかも知れない、というくらいである。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」(『日本国憲法』前文)

 大きな戦争を経験した直後に作られた憲法なので、戦争を念頭に、それを再現させないことが主眼となっているのは仕方がないことだが、ここで言われている「平和」に、環境問題を克服することを含めても、改憲が思い通りに実現しないからといって、「解釈」によって集団的自衛権を認めようという破廉恥に比べれば、たいした問題ではあるまい。むしろ、人類の生存なくして「恒久の平和」などあり得ないことを思うと、その方が自然だという気がする。温暖化をくい止めるための強引な策を率先して実行することは、困難であるだけに、「(平和を維持しようと努めている)国際社会において、名誉ある地位を占める」ことになるのは必至である。日本国憲法の崇高な理念を、環境問題にも生かしたいものである。

 そもそも、例えば、なぜ尖閣諸島の領有権を、1970年頃になって突然、中国が主張し始めたかと言えば、尖閣諸島界隈に石油をはじめとする豊かな地下資源が眠っていることが分かってきたからである。二酸化炭素の排出量を減らそうという中で、資源など抱え込んでいる必要はないのだから、尖閣諸島は中国にやってしまえばいいのだ。日本が尖閣諸島の領有権の放棄など、捨て身で二酸化炭素の削減に努めようとした時に、中国は大喜びでそこを占領し、海底資源の開発を始めるだろうか?相手はなにしろ中国なので、そういうことが無いとも言えないが、逆に、はしたないと自覚して、動きを止めることもあり得る。どうでもいい。とにかく率先して実行に移せばいいのである。すると、尖閣諸島近海での、巡視艇や警戒機によるせめぎ合いが無くなり、更に石油の節減=二酸化炭素の減少が実現する。

 そもそも、世の中の争いというのは、自分が他者よりも少しでも多くの利益を得たいという衝動から出発しているのが大半だ。積極的に利益を放棄することは、争いを放棄することになり、争いを放棄すれば、軍隊が必要でなくなり、軍隊が無くなれば膨大なエネルギー消費が無くなり、そうすれば、そのエネルギーを生活に回せるので、国としてエネルギー消費を減らす割には個人の生活の質が落ちない、ということにもなる。「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出せ」というイエスの教えは、人の世の真理である。いくら立派なことを言っても人は動かないが、身を以て示せば動く、というのも正しい。

 さてさて、昨晩は、NHKが『クローズアップ現代』で、地球規模の深刻な気候変動を取り上げていた。一方、今日の『河北新報』は丸々一面を使って、仙台空港の民営化が迫っているとの特集を組み、「わずか半年で全面復旧を遂げた仙台空港が、さらなる成長戦略を仕掛ける」とぶち上げている。改めて、私の考えていることなど、本当に「机上の空論」だな、と思った。(終わり)