一昨日の『朝日新聞』に、「「2度以内」か「成りゆき」か IPCC報告、温暖化2つの選択肢」という記事が載った。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が出した報告書に関するもので、二酸化炭素の排出→温暖化を「成りゆき」に任せれば、「多くの生き物が逃げ切れない」という厳しいものである。「成りゆき」とは、現在のように「更に加速させる」ことを意味するのだろう。
IPCCの報告・勧告については、今までにも各紙でたびたび記事になり、私も何度か触れたことがある。あまりにも深刻・重大な指摘でありすぎて、私などはいてもたってもいられないような気さえするのだが、世の中があまりにも平然としていて、相変わらず生存と二律背反の関係にあると思われる「豊かさ」ばかりを追い求めているので、なんだか自分が阿呆のように思われてくる。私はいいとこ今世紀の半ばまでしか生きられないので、決定的な行き詰まり状況を目撃することはないように思われるが、我が家で子どもの顔を見ていると、最低限、この子たちが死と直面しながらでなく生きていける環境は残してあげたい、残してあげなければならない、という思いは強くこみ上げてくる。世の中の親も同様だと思うのだが、いや、今、目の前の子どもにいい思いをさせてやることの方が大切なのだろうか・・・?
私の思いは以前と変わらないので、興味のある人には、2013年8月26日から4日間の記事を読んでもらうことにして、今日は長々と書かない。
一昨日の『朝日』の記事で、面白い(?)と思ったのは、4度以上の気温上昇を許すと、世界的な食糧安全保障に大きな影響を与える可能性があるとした上で、影響が連鎖して「武力衝突の危険性が高まると警告を発した」の部分である。人間の欲望の結果として、大きな気候変動が起きた時、後悔を感じて禁欲に転じるのではなく、残った食糧を求めて「武力衝突」が起きるというシナリオは、なんと深く哀しい人間性への洞察に満ちていることか!本当に哀しいけど、おそらく、確かにそのとおりなのだ。もちろん、「武力衝突」ほど無駄にエネルギーを消費し、二酸化炭素を放出し、環境にダメージを与えるものはない。にもかかわらず、深刻な温暖化の中で、人間がそれを行うとすれば、それが「人間」の中に神が仕込んだ、破滅へのDNAなのだな、と思う。自然は人間を滅ぼさない。温暖化による環境の悪化も、それによる人間の死滅も、人間自身の内部崩壊に他ならない。