結局、学者はダメだ・・・部活動再論



 2回続けて本の感想を書く。中澤篤史『運動部活動の戦後と現在〜なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか』(青弓社、2014年)である。

 私は部活動というものが、今の学校の「本末転倒」を作り出している悪の元凶であると考えていて、そのことについては以前書いたことがある(→こちら)。そこに寄せられたコメントを見てもらえば分かるが、おそらく世の中に部活で苦しみ、悩み、恨んでいる教員は相当数に上るだろうと思う。コメントをくれた人以外でも、この記事を評価して声をかけてくれた人は多かった。仕事に不平を言うなんてもってのほか、と怒ってはいけない。教員がそのことに悩むのは、部活動は教員から際限なく時間を奪って私生活を破壊する上、学校とは何のための場所か?教員とは何をする人か?という理念との関係で、本来すべきことをできなくしていると感じるからなのだ。

 どこかの新聞(『朝日』だったか?)の書評でこの本を見付け、これから先、部活動問題に取り組んでいくためには読んでおかなければ、と思って買った。しかしながら、申し訳ないが、私が今日この本を取り上げるのは、5000円(正しくは4600円+税=4968円)に近いこの高価な本を買って、悔しい思いをする人を減らすためである。作品というのは、無視、黙殺が最も手厳しい批評だとは分かっているのであるが、世のため人のためを思えば、酷評しておくしかない。

 結局、学者はダメだ、としか言いようがない。せっせと文献やデータを集めてはいるが、フィールドワークの事例が少なすぎることもあって、著者が描く部活動は、少なくとも私が四つの高校に勤務して知っている部活動の実態とはかけ離れ、多くの論点が抜け落ちていることお話にも何にもならない。著者が中学校を中心に考察しているので、中学校と高校の違いという問題もあるのかも知れないが、著者自身が中学と高校をひとまとめに扱っているので、それが問題だとすれば、やはり著者の責任である。内容的な重複も非常に多い。この運動部活動論で東京大学の学位(教育学博士)が取れ、一橋大学の専任講師職が手に入るというのは、実におめでたい話である。著者の無能よりは、学者世界の狭く夜郎自大的な気風をよく物語っているだろう。

 おそらく、日本人であれば誰にとっても身近な部活動について、自分の体験や目に見える実感的な情報は排除して、文献とごく限られた人へのインタビューだけで描こうとした結果、見えるはずのものが見えなくなってしまったのではあるまいか。それは確かに学問的な実証性かも知れない。だが、そうだとしたら、なおのこともっともっと徹底的にアンケート調査を行い、多くの人々からインタビューをしなければ、学問とはわざわざ「群盲象をなでる」を正当化するために存在しているかのような迷惑なものになってしまう。このような人が、「運動部活動論の専門家」などと持ち上げられ、教育関係の審議会、有識者会議などという場で意見を述べ、教育政策の決定に力を持つ場面など想像すると、学校現場にいる人間としてどうしようもなく暗い気持ちになる。

 読み終えてから思えば、副題になっている「なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか」にしても、解説すること自体はひどく簡単な問題であって、こんなことについて300ページ以上も学者臭い硬質な文章を我慢して読むからには、「簡単な問題」だと思っていた自分が軽率・迂闊であったと反省し、粛然と頭を下げざるを得ないような新鮮な内容がなければならない。この本にそんなものは何もない。それどころか、主に私学、今や公立でも問題となる「学校宣伝効果」を求める声については一言も語られない。スポーツをするとなれば学校対抗でなければ盛り上がらないという、学校ナショナリズムについての言及もない。更に重要なのは、部活動において非常に大きな役割を果たしている、部活動をするために教員になったという人間の存在も、無いわけでは無いが、取り上げられていないに等しい。以下、あまりにも不足が多すぎてキリが無いから、この本に欠けている論点の指摘は止める。

 とにかく、あれこれと不満を感じながら読み終えた後で、「はじめに」に戻って、この研究の原点を確認してみて、なるほど、と思った。


「本書は、運動部活動が良いか悪いかを評価したりはしないし、運動部活動に潜む問題を告発したりその解決策を提示したりもしない。また、運動部活動とは本来こうあるべきだといった主張もしない。(中略)そうした理想論を語ることではなく、本書が目指すのは、運動部活動の存在自体の不思議を解きほぐすために、運動部活動の現実を徹底的に見つめ直すことである。」


 著者がこの本を書いた理由は、単純素朴な知的探究心である。学校における運動部活動をどうすべきか考え、建設的な提言をしようなどという気持ちはないのだ。私が勝手に期待したのが間違いだったのだろうか?いや、そうではないだろう。100年前の出来事についてならともかく、果たして、学校や部活動のあるべき姿を考えるという作業を排除して、その現実を見つめ直す、などということが本当に可能だろうか?私には「逃げ」もしくは「言い訳」と見える。現実を見つめ直して、問題を発見しないことは難しい。問題を発見してしまって、それを公表(告発)せず、解決も目指さないとしたら、それはもはや積極的な「悪意」だろう。著者はいつになったら、あるべき部活動や学校教育のあり方について考えることを始めるだろうか?おそらく、それは永久に始まらない。こういう姿勢の人は、分析とか調査とかを永久に続けるだけで、現実の問題として教育に関わるなどという面倒なことは最後までしないのだ。

 教育という生々しい問題について、野次馬的な評論家は要らない。反面教師の姿を見るのに5000円は高すぎる。


(注)私は上の文章で「スポーツ」という言葉をごく一般的な意味で使った。著者は学者らしく明確に定義していて、かなり限定的な使い方になっている。私にそれが分かっていないわけではない。ただ、それを前提にするとひどく面倒なことになるし、上のように使ったからといって、特に問題が生じるわけでもないので、上のような書き方をしたまでである。念のため、注記しておく。