高校野球宮城大会決勝



 昨日の「オーシャンキャンパス」は、思ったほどひどい雨にもならず、そこそこの来場者もあって、いいイベントになった。

 今日は、高校野球宮城県予選の決勝戦(利府×佐沼)を見に行った。

 宮城県は「仙台育英」「東北」という私学の二強が圧倒的に強く、この二校で決勝戦、もしくはどちらかと二強以外の高校が決勝戦を行って結局優勝は二強、という年が多い。1985年以降昨年までの30年間を見てみると、二強以外が優勝したのはたったの4回で、公立はそのうち3回に過ぎない。しかも、2002年、仙台西高が優勝した時というのは、二強のうちの片方が、不祥事か何かで不参加だったと記憶する。仙台育英24回、東北21回に次ぐ優勝回数を誇るのは、なんと宮城県で最も偏差値が高い仙台二高の3回であるが、直近の出場が1958年であるから、誰でも野球にうつつを抜かせる時代の話ではなく、今の感覚でその価値を公平に評価することなどできない。

 というわけで、宮城県には「どうせ育英か東北だろ?」という白けた雰囲気がある。決勝戦にしても、「セミプロ同士で勝手にやれば・・・」である。データが手元にあるわけではないので、思い込みで物を言うのもいかがかとは思うが、全県もしくは全国から選手を集めて鍛え上げている私学と、県立高校としての様々な制約の中で練習に励んでいる平凡な高校生が、同じ土俵で勝負をすることの不公平感は甚だしい。時として、それは痛々しくさえある。だが、何かの事情で、その平凡な高校生が二強に勝てば、単なる一勝以上の燦然たる価値を帯びる。今年は東北学院高校が4回戦で仙台育英を破り、その東北学院を佐沼が準々決勝で破った。利府も準々決勝で東北を破った。その佐沼と利府とが決勝戦で対戦するとなれば、いやが上にも盛り上がる。「どうせ二強だろ?」とあきらめてしまわず、「打倒二強!」と本気で考えて、ひたすら練習に励んできた諸君は偉い。

 私自身がその決勝戦を見てみたい、という強い気持ちがあったのも確かだが、実はこの3日ほど妻が変な体調不良で熱を出し、寝込んでいる。病人を休ませるのに一番いいのは、ひたすら騒々しい息子を家の外に連れ出すことである。加えて、息子は年(6歳)に似合わぬ野球狂だ。高校野球の決勝戦を見にコボスタ(Koboスタジアム宮城=楽天の本拠地)に行くぞ、と言えば、大喜びだ。私たちは9時半に家を出て、10:13の仙石線に乗り、震災による不通区間代行バスを乗り継いで、12:10に宮城野原に着いた。この「旅行」も楽しい。

 いくら決勝戦とは言っても、高校野球の県予選でこんなに人が入るのか、というほど人がいた。試合開始の40分前に着いた私たちは、幸いにして、バックネット裏、前から15列目くらいのいい席を確保できたが、試合が始まっても人は増え続け、ネット裏〜内野席がほぼ満席になったところで、ライト側の外野席が開けられ、やがてそこも3〜4割(一見して5割)は埋まった。知り合いである関係者に聞いたところによれば、有料入場者数は7000だったそうである。60歳以上と、中学生以下、そして両校の関係者は無料だから、老人と子供がやたら多かったことを考えると、少なくともその倍、15000以上は入っただろう。

 私自身、少し足が震えるくらい興奮していたのだが、一方で、ワンサイドゲームになるのではないか、とも思っていた。試合開始直後、佐沼高校のピッチャーが投げた初球を、利府の一番打者が2塁打にした時には、そんなシナリオが現実化しそうに思われた。

 私は佐沼高校応援だ。というのも、利府高校にはスポーツ科学科という学科があり、その「専攻実技」という授業は、部活動と同じ種目を体育の授業として学ぶということになっていて、私はそれをズルだと思っていたからだ。宮城県内の公立高校の中で、最も私学に近い部活優遇策が採られているのが利府高校だと思う。おそらく、部員も県内の相当広い範囲から集まっているだろう。一方の佐沼は、県北の農村地帯にある平凡極まりない公立高校だ。旧制中学校上がりの高校なので、一応、地域の拠点校として勉学にもそれなりに力を入れている。そういう平凡な高校が甲子園に行けてこそ、甲子園は「球児の夢」たり得ると思う。

 結果、利府高校が優勝はしたものの、ワンサイドゲームどころか、非常にいい試合になった。スコアは3対2で、ヒットの数は同数(7本)だった。強烈な日射しの照りつける中、息子は、あれこれと私に質問をしながら、一度として席を立つこともなく、食い入るように最後まで見ていた。

 だが、スコア以上に実力差はあったように思えた。それは、試合前のシートノックの段階で、既に見えていたように思う。利府のシートノックは、流れるように美しかった。先生が打った球の数も、佐沼の1.5倍くらいあったのではないか。与えた四死球とエラーも、佐沼が圧倒的に多かった(佐沼8、利府2)。利府はバントが実に確実で、佐沼はイマイチだった。利府高校は、ピッチャーを4人つぎ込んだ。なかなかプレッシャーのかかる場面で、いとも簡単にエースナンバーをベンチに下げ、その後も同様の投手交代を続けた。そんな場面でピッチャーを代えるとは度胸があるなぁ、と感心したり、これで佐沼のチャンスだ、と喜び期待したりしたが、結果として後続のピッチャーが抑えきった。これはあっぱれであった。

 一方、佐沼のエースは決勝戦も一人で投げ抜いた。それでいて、利府の強力打線を3点に抑えたのはあっぱれであった。その他の諸君も大健闘だった。どちらも勝たせてあげたいとも思い、佐沼高校応援者としては残念だとも思ったが、実力だから仕方ないな、とあきらめは付いた。

 部活動は学校の本末を転倒させる諸悪の根源、というのが私の持論である(→こちら)。だが、目の前で行われていた野球は、野球を愛する高校生による真剣勝負であって、いわば行きがかりの人間である私にとっては、「部活動」として意識することのないものであった。そんな視点で見れば、これほど美しく感動的なものはない。スポーツは疑似人生であり、試合は一回性のかけがえの無さを感じさせてくれるものの代表格だ。高校野球は、そんなことをひときわ強く感じさせてくれる。組み合わせによっては、また球場に足を運んでしまうのだろう。

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