登山という「遊び」の心得



 御嶽山が噴火した時、だいたい予想は付いたのだが、その後、火山の噴火予知や登山者の安全対策に関しての議論があれこれと聞こえてくる。ご苦労なことだ、と、私は例によって斜に構えて見ている。地震や火山噴火の瞬間がいつかということを予測することがいかに難しいか、というのは、素人である私にも容易に想像が付く。白熱球のフィラメントが切れる瞬間を、10秒の誤差で予測せよ、というようなものだろう。

 私などは、生きるというのは多く「運を天に任せる」ことだと思っているので、山に登る機会が人よりは多かった人間だし、今後もそうであろうが、だからといって、噴火予知の精度を高めてくれないと困るとか、活火山の山中には、相当な大きさの噴石にも耐えられるシェルターを準備すべきだ、などとは考えない。山に登って噴火に遭う確率よりは、明日の通勤途上で交通事故に遭う確率の方が、数万倍以上も高いだろうと思っている。噴火に遭遇すれば「運が悪い」というだけの話である。とことん危険を避けたければ、家の中でじっとしているに限るが、それでも、地震や竜巻、果ては隕石の落下といったリスクから逃れられないのだから、心配はほどほどにしなければ・・・。

 しかも、登山などというのは、基本的に「遊び」なのである。噴火、雷、大雨、大風、雪崩といった様々なリスクを知り、心配だったら行かなければいいのだし、自分の遊びのために、気象庁や地元自治体の手を煩わせ、お金を出させるのはケシカランと思う。現在の捜索活動だって、行方不明者の発見よりは、自衛隊や消防隊員が二次遭難しないことを最優先にしなければならない。もちろん、火山のお膝元としては、観光収入の問題を無視できないだろうから、「対策」にお金を費やして、それ以上の見返りがあるのならやる、そうでなければやらない・・・それでいい。

 今回の御嶽山の事故で、死者・行方不明者の合計は63人ということになっているが、この数字が確定するまでには、ずいぶん時間がかかった。その理由として、当初は「登山届け(入山届け)」を出していなかった登山者が、相当数いたらしいことが報道されていた。実は、これがなかなかに重要なことだ、と私は思っている。

 まともな(?)登山者の世界ではよく言われることだが、登山に際して「登山届け」を出すことは、基本的なマナーである。いくら本人が、「山で死ぬのは本望だ」などと言っても、実際に遭難すれば家族が大騒ぎし、誰かが捜索に入らなければならなくなるのだから、自分の安全もともかく、人の迷惑を最少限にするためにも、「登山届け」の提出は必須である。基本的に、山のある場所の警察(県警本部の地域課)が提出先だが、最近は、通常の登山ルートであれば、ほとんどの登山口にポストが設置されていて、記入用紙も置いてあるので、事前に作った計画書を入れるか、所定の用紙に記入しておけばいいだけである。

 さほど面倒な作業には思えないが、これをしない登山者が多いことは、届けを出していない人が遭難するたびに問題となる。にもかかわらず、一向に改善の気配もない。今回のような火山噴火の場合はどうしようもないが、道迷いや悪天候による遭難の場合、遭難するのはたいてい「登山届け」を出していない人だ、という法則もある。当然である。「登山届け」を出すか出さないか、事前に「計画書」を作るか作らないかは、明らかに、登山に対する心構えを反映するからである。

 「登山届け」を出していない人が遭難した場合、陰でしばしば言われるのは、こちらが危険を冒してまで、そんな人を捜索に行かなくてもいい、ということだ。私が見たところ、山と真剣に向き合ってきた立派な登山家ほど、そういうことを言う。冷たいのではない。山の危険を骨身に染みて知っていることの裏返しなのである。

 御嶽山の「教訓」ということもしばしば語られているようであるが、東日本大震災津波の教訓を信じていない私(例えば→こちらこちら)としては、これまた鼻白む思いでそれを聞き流している。しかし、現実的でお金もかからない教訓があるとすれば、それは唯一「登山届け」を出す、ということだ。だが、その教訓を生かそうと思えば、今回どれくらいの登山者が無届けであったかということと、「登山届け」の意味というものを大々的に訴える必要がある。「登山届け」を周知させ、提出を徹底させるチャンスであるとも言えるだろう。残念ながら、報道の多くは、今回の犠牲者がどんなに素敵な人たちだったかという、事故の本質とは無関係のどうでもいいことを、「お涙頂戴」式に興味本位で垂れ流すものばかりで、「登山届け」を始めとする、登山の基本的な心構えやリスクについてのものは少ない。火山の噴火はあまりにも特殊だが、なに、今後も事故は起こり続けるさ・・・報道を見ながらそう思う。