昨日は「ラボ・トーク・セッション」だった。早いもので第3回(→1回目、2回目)。2か月に1回というものすごいペースで開催してきたこのイベントも、今回は初めて定員超過となり、何人かの方にお断りをする盛況となった。イベントとして定着してきたということか、今回の講演の内容に引かれたのか、それは分からない。ともかく、キャンセルを見越して、定員を5名上回る予約を受け付け、やはり当日キャンセルは出たものの、それでも定員オーバーで本番を迎えた。
今回は初めての文系企画で、講師は南アジア地域文化研究者の千葉一(ちばはじめ)氏。演題は「大きな文明の小さな宝物−インダス文明の発掘調査から見えたこと」。
事前に先生とやりとりしていた時、先生からは「インダスがらみの小話でよければ」「気楽なトークにしたいと思います」「30分さらっとお話しして、呑む方に時間とエネルギーを費やしましょう」といった言葉が漏れた。しかも、メールの返事がなかなか返ってこない。あれれ、これ本当に大丈夫かな?と時折不安を覚えた。
実は、千葉先生を引っ張り出したのは私である。3年あまり前、河北新報の投書でこの先生を知り(→その時の記事についての私の感想)、面白そうな方だなぁ、一度お会いしてみたいなぁ、と思っていたところ、例の南浜町復興祈念公園に関する協議会(→こちら)でご一緒することになり、その思想・教養と人柄とにすっかり魅せられて、以後、かなり親しくお付き合いさせていただいてきた。だから、千葉先生なら大丈夫と思いつつ、推薦者として、「ラボ・トーク」の趣旨(1回目に書いた)からしても、単なる「小話」で済まされるのは困る、と思っていたのである。
杞憂であった、という表現に恥ずかしさを感じるくらい、白熱した講演だった。先生の謙遜というか、恥じらいを私が理解していなかっただけのことである。
PCを置く位置の関係から、先生はソファのような深い椅子に座って話をする形になった。講演者の視点が聴衆よりも低いという、学校の授業の逆の形で、しかも固定である。人に向かって何かを語るには非常に難しい体勢だ。先生も始めのうち、やりにくそうにしていたが、人々の集中力は先生の話の内容のみによって引き出されてくる感じで、話が始まると間もなく、違和感はなくなった。これだけで十分驚きに値する。
一応、持ち時間は30分ということでお願いしてあったのだが、先生が「あれ、もう30分過ぎちゃいましたね」とつぶやいた時、私は、話が始まって10分くらいにしか思っていなかったので、大いにびっくりした。つまり、あまりにも話が面白いので、それくらい時間が短く感じられていた、ということである。「小話」は、一瞬のうちに予定の倍以上、60分あまり続いて終わった。
演題からも少し分かる通り、最大のポイントは、インダス文明の特徴は小さな物の加工が非常に得意な点である、ということであった。単に小さな物の加工が得意というだけではなく、作られた物が全て小さいのだ。他の文明は大きな物が大好きで、その代表がエジプト。インダスで最大のお墓が3m四方に過ぎず、庶民と王侯のお墓の規模にほとんど差はないのに、エジプトは10万倍にもなる。大きな物がないということは、大きな権力が存在しないということでもあり、大きな権力の誕生は、争いを生むことでもある。インダス文明は、争って大きな物、多くの物を手に入れるのとは反対の、足ることを知り、争いをしないという思想の上に成り立っている文明だ。しかも、争いは気候変動のような不安定から生まれる。・・・と書いてくれば、もう正に「温故知新」。現代人たる我々が、いったいどちらに向かって生きていくべきかを考える上で、インダス文明は非常に豊かな教訓と示唆を含んでいると分かる。
この点を軸にしつつ、先生は、いかに現代インド文化がインダス文明から多くを受け継いでいるかということや、インダス文明の高い技術力、広範囲の移動と交易、といったことについても、豊かな写真を使いながら、明快に説明して下さった。インダス文明の特徴をはっきりさせるために、いろいろな場所と時代の話を引き合いに出すのだが、比較事例の引き出し方が縦横無尽、自由自在といった感じで、それもまた圧巻だった。
仙台からわざわざやって来た前任校の教え子は、「いやぁ、恐ろしいほど面白かったっす」と興奮していたし、今日の午前、某女史は我が家にお茶飲み話に来て、千葉先生の昨晩の講演をそのまま収録してテレビの1時間番組にでもしたら、日本にインダス文明ブームが起こってもおかしくない、と、興奮冷めやらぬ口調で語っていた。私も確かにそう思う。
先生のお話に触発された参加者による懇談は、日付が変わるまで続いた。私も飲み過ぎて、今日一日、少々調子はよろしくなかったが、それに勝る心地よい感動の余韻があった。