Tさんが心配だ・・・残業問題

 電通に勤務する若い女性が昨年、過労により自殺に追い込まれたことが、今年の10月7日に、ようやく労災として認定された。この件は、労働局による異例の立ち入り調査にも発展した。女性の残業時間は月に160時間にもなっていたという。一般的に過労死ラインと言われるのは月80時間だから、倍ということになる。宮城県の高校教員としては指折りに暇な部類に入る私の場合、月に実質20時間くらいだ。
 ちょうどそんな折、小学校の学芸会でTさんに会った。石巻市内の建築会社に勤務する30代半ばの善良な人だ。家が同じ方向なので、一緒に連れだって小学校を出た。歩きながら、とにかく仕事が忙しくて困る、とぼやく。私のような「親友」ではない相手に、ひどく深刻な顔でグチをこぼすのだから、よほどのことなのだろうと思った。残業が200時間を超える月が珍しくないという。200時間と言えば、普通の勤務日1日あたり10時間である。もちろん、こんなことは不可能なので、土日も出勤しての200時間だ。電通の160時間と比べても異常である。「命あってこその仕事ですよ。家族もいるし。Tさんなんて、技術者なんだから、その会社辞めても働き口あるでしょう?」と言うと、「建築業界なんて、どこでも似たようなもんですよ。0時過ぎに電話しても、どの会社でもぱっと出ますからね。異常な世界です・・・」とため息をつく。「今日は学芸会のおかげで休めたわけですね?」と言うと、「何言ってんですか?今から仕事ですよ・・・」と、またため息をつく。返す言葉がなかった。
 デートDVの話を聞くと、別れりゃいいのに、と思う。だが、これがなかなか難しいらしい。異常な残業の話を聞くと、辞めりゃいいのに、と思う。こちらは生活がかかっているから、デートDVのようにはいかないのが分かる。だが、すぐには生活に困らない場合でも、辞めることは難しいのだそうだ。電通の例でもそうである。ここが人間の心理の不思議なところだ。
 私は、何時間残業という基準が、必ずしもいいとは思っていない。しばらく前から学校の多忙化の問題でよく言われるのは、「多忙の質が悪い」ということだ。つまり、同じ忙しいにしても=残業が多いにしても、苦になる忙しさと苦にならない忙しさがある、ということだ。苦にならない忙しさの条件は、私によれば以下のようなものである。

・楽しい。
・止めようと思えば止められるが、自分の意思でやっている。
・人間以外の所にやむを得ない事情がある。

 上二つと下一つは性質が違う。上二つは分かりやすい。自発的な、自分自身の問題意識によってやっていれば、仕事もレジャーの一種である。裏を返せば、やらされる、意味のよく分からない仕事は苦痛だということである。「多忙の質が悪い」とは、忙しさが楽しさではなく、やらされ感に満ちた苦痛になっているということである。
 下は分かりにくいかも知れない。たとえば昔、人間は朝から晩まで働いていなければ、基本的に食えなかった。食べるためには、1日何時間などとは言っていられなかったのであって、こういう場合の長時間労働はあきらめが付く、ということである。
 このことを思うと、生活のために仕事をして、それが8時間を超えたからといって文句を言うのは、「ごたく」である。そして、問題になっている長時間労働や多忙というのは、人間が食うため以外の時間(ゆとり)を持つことが出来るようになったからこそ生じる問題なのであって、その意味で贅沢な悩みともいえるだろう。
 だがもちろん、私はブラック企業の肩を持つ気はない。文明の利器の発達で、明るくなってから暗くなるまでといった自然による制約がなくなり、働く時間にブレーキが利かなくなったという困った事情がある。会社組織に属するようになったことで、搾取の危険とも隣り合わせだ。グローバル化によって、時差に振り回される職場もあるだろう。そして、現代人は、豊かさと効率化に対して、ほとんど信仰とも言ってよいほどの、迷いなき信念を持っている。質の悪い多忙の多くは、現代文明の副作用として生み出されたもののようだ。
 他人の振り見て我が振り直せ。電通でこれだけ大騒ぎになっているのだから、会社が危機感を持たないのはおかしな話だ。Tさんと話をしてから2ヶ月近くが経つ。Tさんは今、どうなっているだろう?よくそんな心配をしている。