プレミアム・フライデー?

 今日は初めての「プレミアム・フライデー」だそうである。学校では、そんなこと話題にさえならない。夜、テレビのニュースで盛んに取り上げていたので、そういえばそんな話あったっけ、と思いだした次第。いわゆる「働き方改革」の一環なのか、時には会社を早く出て、同僚と飲みにでも行けば、消費の拡大にもなって一石二鳥ということらしい。果たして、そんなに上手くいくかな?
 勤務時間を短くしようと思えば、仕事の量を減らさざるを得ないが、そんなことが出来る会社がそうそうあるとは思えない。仕事の量を減らさなければ、月末の金曜日短縮分が他の日に上乗せされるだけである。旅行に行くにしても、街で呑むにしても、消費の拡大は浪費の拡大である場合が多い。資源、環境にも悪いし、人間は一度楽をしてしまうと、厳しい方に戻るのが大変なので、堕落へのスパイラルにもなりかねない。
 世の中の流れを見ていると、労働時間はどんどん短くなっている。厚労省の統計によれば、1960年に2426時間だった年間の総実労働時間が、2015年には1734時間まで減っている。この55年間で、30%近く減ったことになる。
 実は、私はこれを手放しでいいとは思っていない。人間は本来、日の出から日没まで、もしくは+アルファ働いていなければ、食べることが出来なかった。労働時間がどんどん短縮されてきたのは、エネルギーを消費することで、機械に仕事を押しつけられるようになったからだ。このゆとりは、あくまでも仮の豊かさに過ぎない。労働時間短縮が、人間自身が能力を増大させた結果ならいいのだが、決してそうではないことは肝に銘じておく必要があるだろう。
 その上で、労働そのものが喜びである、という状態が望ましい。もちろん、仕事に苦労はつきものだが、苦労した結果として大きな喜びが得られるのであれば、それはそれでよい。旅行に行かなくても、飲みに行かなくても、映画やスキーに行かなくても、楽しいから仕事をしていた方がよい。長大な残業を強いる会社や社会を肯定する気はさらさらない。本来、生身の人間は労働時間を今ほど短くできないという前提で、仕事が喜びであるべきだ、ということである。
 今のように、労働時間短縮を大きな声で言うのは、まるで労働が苦役である、労働は、せずに済むならしないに越したことがないものである、という前提に立っているかのようだ。逆の側から言えば、生活の本来の部分というのは余暇でこそあるのだ、ということになってしまう。これは倒錯ではあるまいか?
 人間は、仕事を通して社会的に支え合って生きている。もちろん、プレミアム・フライデーだと言って呑みに行けば、飲み屋の仕事を増やすことになって、支え合いのシステムを活性化することになる、という考え方も出来るかも知れない。だが、やはり違う。
 プレミアム・フライデーなんて設定しなくても、毎日、残業を強いられることがなく、勤務時間通りに退社できるなら、おそらく、余暇に困ることはない。目指すとすれば、それだ。一方で、ここまで労働時間を減少させたことがいいのかどうか、人間の本来のあり方との比較で考えてみる必要はあるだろう。消費を増やすことへの反感もあり、例によって、プレミアム・フライデーのニュースを冷めた目で見ている私であった。