自分の言葉遣いの問題で、最近少し気になることがあった。いや、発見と言った方がいいかもしれない。
今年3月29日、宮水の離任式。私は生徒諸君に向けての離任の挨拶で、一言も「ありがとう」ということを言わなかった。その心理について、夜に教職員だけで行われた送別会の場で、少しだけお話をした。「自分は宮水に7年間いて、生徒も含めて、いろいろな方に教えていただき、お世話になったことをよく分かっている。しかし、その間の自分が不甲斐なかったためか、「ありがとう」と言おうと思うと、言葉がのど元で「ごめんなさい」に変わってしまう」というような話だった。
4月の6日だったか、中国語の解釈に関する問題で頭を悩ませ、大学の先生に教えを請いに行った。延々2時間もご指導いただき、もちろん最後には「ありがとうございました」と言って帰って来たのだが、帰る道すがら、「すみません」とか「ごめんなさい」を負けず劣らず繰り返してきたような気がした。
数日前、ある方にお願いしてあったことが完了したというメールをもらい、お礼の返信をしたのだが、そこにまた「なんだか申し訳ないような気分ばかりで・・・」と書いたところで、会話ではなく文字だったからだろうか、ふと、どうも最近の自分の言葉遣いは変だぞ、お詫び調が多すぎる、ということにいよいよ強く向き合うことになった。そして、なぜこんなことになるのだろうか?と考えた。
日頃学校で、生徒には「感謝の気持ちを忘れるな」とよく言う。「ありがとう」が少ない割に「ごめんなさい」ばかりが多い自分は、いったい何なのだろうか?それでも、よく自分の心の中を見つめてみたところで、人に対する感謝の念が薄いとはあまり思わない。ただ、まさに送別会で言ったとおり、それがのど元を過ぎるところで「ごめんなさい」に変わるのだ。
そんな疑問というか、違和感というかを持ち続けて、つい数日前に、はたと思い当たったことがある。
「ありがとう」は、相手がしてくれたことについて、それは正に「有り難し」=めったにない、価値あるものだ、という意味であり、「ごめんなさい」は自分の至らなさや、失敗について罪を「免じて下さい」である。つまり、相手の方が上だとするのが「ありがとう」で、自分の方が下だとするのが「ごめんなさい」だ。こうなると、「ありがとう」は尊敬語で、「ごめんなさい」は謙譲語だということにもなるだろう。
見ている方向(対象)は正反対でいながら、相手と自分の間に相手が上で自分が下という関係を見出し、相手を尊重し、自分を卑下しているという点で、実は同じような働きをしているのだ。これは新鮮な発見だった。どちらを使うかは、行為の性質によっても決まってくるが、相手によりいっそう目が向いているか、自分自身によりいっそう目が向いているかによっても決まってくる。
例えば、何かを人に教えてもらうとして、単に相手が教えてくれているということよりも、自分の至らなさを自覚し、これほど未熟であるにもかかわらず、相手が教えてくれていると感じるから、「自分がバカであるがために、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」となる。だとすれば、「ごめんなさい」を選びがちな人間というのは、自意識が強いのではないだろうか?
最近私自身が気にしている「ありがとう」の少なさ、「ごめんなさい」の多さが、本当に最近の現象なのかどうか?直す必要があるのかどうか?私にはよく分からない。ただ、こんな日常的な言葉の中に、自分の人間性が露呈しているとすれば・・・それを恥ずかしくも恐ろしくも思うばかりである。