私に相談するのはやっぱり間違い

(10月17日付け「学年だより№22」より②)

 先日の普通科「現代文」の考査では、時間が余ってしまった時のため、解答用紙の最後に「授業についての感想、要望などを自由に書きなさい」という欄を作っておいた。
 時間的に厳しかったと見えて、書いてくれた人は3人しかいなかったが、その中に、「自分は国語が苦手なので、覚えやすい勉強法とかあれば知りたい」というものがあった。私は赤ペンで、「時間をかけて努力し、自分で見つけ出して下さい。それ以外にありません」と書いて返した。質問した生徒の側にしてみれば、こんなこと聞きたくて書いたわけじゃねぇよ、というところであろう。
 同様の質問を、私は今までに数限りなく受けてきた。昔は、誠心誠意答えていたのだが、やがて真面目に答えるのを止めてしまった。質問する人が学ぶ意欲に燃え、本当に悩んで質問しているのではなく、少しでも楽に結果を手に入れたい、あるいは、勉強が出来ない(自分が勉強しない)ことに対する言い訳として、「勉強方法が分からない」と言っているだけだと気付いたからである。
 「文化の価値はかけた手間暇に比例する」と言うとおり、勉強には手間がかかるから価値があるのだ。簡単に、楽に学力が身につく方法があるのなら、私自身が知りたい。勉強の方法もまた、実際に勉強する中でのみ見つけ出すことが出来るのである。


【蛇足】
 「学年だより№19」で、「『やればできる』と『やったらできた』」ということを話題にしたところ(→こちら)、ある人から「やってもできなかった」場合はどうなるのだ?と質問された。大丈夫。実際にやった人は、「結果」の形にはならなくても得るものがあったと自覚しているから、そんなことを問題にしたりはしないのである。「『成功』の反対は『失敗』ではない。『やらないこと』だ」という有名な(?)言葉がある。知っておくとよい。

 

期せずして出来上がってしまった「私に相談するのは間違い」シリーズ

第1回=6月14日「私に相談するのが間違い」

第2回=6月25日「続・私に相談するのが間違い」

第3回=7月2日「昔から、私に相談するのは間違い」