何のために学ぶのか?

(1月16日「学年だより№34」より②)

【何のために学ぶのか?】
 ビジネス科の諸君はキャンパスが違うため聞いていないが、1月8日、東キャンパス集会で校長が語ったのは、何のために勉強するのか、ということだった。ごく簡単に言えば、勉強しなければ面白い人間になれない、だから勉強せよ、ということである。
 申し訳ないが(ゴメンナサイ)、私は必ずしも全面的には賛成しない(=部分否定)。少し補足的に考えてみよう(明解さを優先に少し話を単純化するのでそ、のつもりで)。
 よく勉強して深い教養を身に付けたAと、勉強せず、教養もないBがいたとする。2人で話をしても、お互いに面白くない。Aは同じくらいの教養を持つCと仲が良く、同様にBはDと仲がいい。当然、AはCと、BはDと話をしていて「面白い」と感じる。教養に合わせた「面白さ」が存在するのである。だから、Bが勉強をせず、「面白い」人間になれなくても、それはAの目線(価値観)で見ているからに過ぎないので、Bには一向気にならないはずだ。その意味で、「勉強しないと面白い人間になれないぞ」というのは叱咤激励にならない。
 しかし、大事なのは、Aの「面白い」とBの「面白い」に、質的な違いがあるということだ。Aが感じる「面白さ」は、Bのそれよりも絶対に質が高い。また、質の高いものを知っている人には質の低いものが見抜けるが、質の低いものしか知らない人には、質の高いものが見抜けないという法則が存在する。従って、質の高い「面白さ」を味わう能力と、質の高い・低いを見分ける能力はイコールだ、ということになる。
 「私は質の高いものなんか要らない、自分が満足できるのであれば、質なんか低くたってOK!」というのであれば、苦労して勉強する必要なんかない(よかったね=笑)。だが、少なくとも私だったら、そういう選択はしない。せっかくこの世に生まれてきた以上、どうせなら質の高いもの、すなわち勉強したことで初めて分かる「面白さ」を味わいたいと思うからだ。そもそも、学校というのはそういう人のために存在するのではないだろうか。「私は質の低いもので十分」という人は、「何しに高校に来たの?」ということになる。当たり前だ。(続く)