Dona nobis pacem!

 マリウポリのアゾフスターリ製鉄所の地下に立てこもっていたウクライナ兵(アゾフ連隊)が投降した。これによって、多くのマスメディアは「マリウポリ陥落」と大々的に報じていたが、私はとりあえず安心した。ロシア軍に包囲されて、重火器もなく、武器弾薬を補充することさえできないとなれば、地下のウクライナ兵が反撃して、包囲網を突破することなどできるはずもない。だとすれば、全員の餓死、化学兵器によるいぶり出しか殺害、蒸し焼きといった凄惨な結末を迎えるしかないのではないかと心配していたからだ。
 もっとも、投降したからと言って、安心はできない。捕虜交換によって彼らはウクライナに戻ることができるのでは?という期待に反して、ロシアは交換を拒否し、戦争犯罪人として尋問し、裁判にかけることを考えていると伝えられるからだ。ロシアの国内法によって裁かれ、最悪、死刑もあり得るという。ではその時、ウクライナにいるロシア人捕虜はどうなるのか?それは分からない。ロシアという国が(プーチンという人が、と言い換えた方がいいのかも・・・)、ウクライナに捉えられている自国兵の命運についてどう考えているかなど見当がつかないのである。捕虜になったアゾフ連隊の将兵が1人たりとも処刑されることのないよう、無力な私は、再びただただ祈る。
 最近、ウクライナ大統領ゼレンスキーの様子が気になる。3月16日に私は、ゼレンスキーについて、敬意を込めて「冷静にして意志強固で、非常に危険な状況に身を置いているはずなのに、不安や怯えを微塵も見せない。むしろ、心に余裕を持って自己主張をしているように見える」と書いた(→こちら)。しかし、連日テレビに登場するゼレンスキーの表情は、最近、当時と違って非常に険しい。大国を相手に薄氷を踏むような防戦を続けて3ヶ月、疲れ切ってくるのは当然なのであるが、それにしても厳しい風貌だ。
 私が恐れるのは、彼もまた狂気に陥りつつあるのではないかということである。その時、人は理性的な防衛の線を越えて、復讐の鬼になりかねない。戦争という狂気は、正常な人をも狂気へと巻き込んでゆく。仮にゼレンスキーが、3月半ばの時点で私が感じた通りの優れた指導者であったとしても、それがどんな場合でも維持されるとは限らないのである。それが戦争だ。
 ところで、数日前、無性にベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が聴きたくなった。学生時代にはその価値が全く分からなかったこの曲が、ブルックナー交響曲とともに、40代半ばくらいからだろうか、至高の名曲であると感じられるようになってきた。コロナの影響で、一昨年、仙台フィルによるこの曲の演奏会が中止になった時には、本当にがっかりした。
 なにしろ今春の異動のおかげで、時間には余裕がある。悠然と、バーンスタイン+コンセルトヘボウのDVDでじっくりと聴いた。元々、なんとなく久しぶりで「ミサ・ソレムニス」を聴きたくなったと言うだけで、特にどの部分をということもなかったのだが、曲全体の最後「Dona nobis pacem(ドーナ・ノービス・パーチェム=我らに平和を与えたまえ)」が始まった時、突然、自分が聴きたかったのはここなのだ、という思いが、ものすごい勢いで胸に湧き起こってきた。ロシアによるウクライナ侵攻収束を願う祈りの音楽として、その時の私には響いてきた、ということだろう。
 通常のミサ曲は、全て同じ歌詞である。つまり、一部例外的な、ラテン語以外の言語の歌詞で作曲されているミサ曲や、歌詞を作曲者がいじっているような曲を除いて、全てのミサ曲はこの歌詞で終わる。だが、私がこの時聴いたのが、「ミサ・ソレムニス」以外のミサ曲だったら、私はこの時ほどの衝撃を受けただろうか?と思う。ベートーヴェンは偉大だ。「我らに平和を与えたまえ」。