今年の学級通信

 既に書いたとおり、今年は正担任である。このブログの読者の中には、また「担任所感」からの転載が始まるわけだな、と思う人もいることだろう。まぁ、そういうこともあるかも知れない。なにしろ、①書くことで自分の考えを整理し、客観化する、②書くために観察するようになる、③保護者に私の教育を理解してもらう、といった点において、学級通信の威力・効力は絶大だ。私が学級通信から被ってきた恩恵は大きい。
 ところが、今回は、以前の「担任所感」と比べていろいろと異同がある。そこで、それらの点について少し書いておくことにする。
 まず、今回も週に1回のペースで出そうかなぁ(あくまでも希望もしくは予想)、というのは以前と同じ。題は、「担任所感」という四文字の熟語が硬いので、「担任のお話」にした。そして何と言っても変わったのはデジタル化である。送信するわけではない。手書き文字を止めて一太郎にしたのである。「えーっ!そんなの平居のプリントじゃねぇべや」というのは、過去を知っているから出る文句である。知らなければ、むしろ当たり前すぎて、それを特別なことだとは認識しない。
 では、なぜ手書きを止めたのか・・・。水産高校時代までは、手書きがかなり積極的に支持されていると実感していた。特に、もはや15年も昔のこととなる仙台一高時代は、文書がなにもかもワープロ化してゆく中で、保護者から「この手書きは維持して欲しい」という強い要望が寄せられていた。ところが、塩釜高校で「学年主任だより」を書いていた頃には、それがさほど支持されているような気がしなくなってきた。実際、1年目が終わる頃だったか、あるアンケートを取った際、便乗する形で聞いてみたところ、「どちらでもいい」「ワープロの方がいい」がかなりの数に上った。
 手書きはメチャクチャに大変である。書くのも大変だが、それ以上に、書いた後で手直しをしたり、更にはイラストを切り貼りして入れたりすることの大変さといったらない。少なくとも、それだけの苦労に見合ったものがなくなってきたと感じたのである。結局、「学年主任だより」は最後まで手書きを維持したし、それに愛着を感じて「全て取ってあります」とわざわざ言ってくれた生徒も2人くらい(分母は350)いたが、私としては時代の流れを感じざるを得ない状況があった。
 「文字は人なり」というのは決してウソではない。私はそこに、情緒面まで含めて大切な価値を認める。しかし、以上のような状況の中で、メリットとデメリットを比較した結果、今回は手書きを止めることにした、というわけだ。体裁は同じ。B4、横書き、縦割りで、裏面は新聞記事等である。
 やってみると、作業は信じられないほど楽。だが、手直しが簡単なだけに、結局、印刷間際まで手直しを続けてしまう。そこまで考えると、果たして本当に「楽」かどうかはよく分からない。それだけ手直しを続ければ完成度は高まるだろう、とは思うが、それもよく分からない。ま、どちらにしても書いている人は同じだから・・・。

(4月13日付け「担任のお話№2」より)

 もはや先週の日曜日の話になるが、私が自宅の居間でお勉強をしていたところ、バーンという大きな音とともに、軽い振動を感じた。家の中で何かが爆発したと思ったので、2階にいた家族に「どうした?!大丈夫か?!」と大声で尋ねたほどである。その後、原因は鳥が窓に衝突してきたのだと分かった。庭にヒヨが仰向けに倒れていて、時々、足だけがピクッと動く。もっと驚いたのは、それからわずか1分後くらいに、そのヒヨを烏(からす)がくわえて持ち去ってしまったことである。厳しい生き物の世界を垣間見た思いがした。

★ 高校時代にしかできない生活を・・・ 明日は部活動集会 ★

 明日は部活動集会(入部登録)である。学年集会(オリエンテーション)で、部活カラーが強くて驚いた人もいるかも知れない(私も少し・・・)。
 私は、学校における「本・末」「主・従」において、勉強が「本」「主」、部活動などが「末」「従」であるという関係は絶対に崩すべきではないと考えている。学校は、機能集団、目的集団と言われる組織であり、その目的や機能というのは教科の勉強である。部活動はあくまでも、生徒の「自主的・自発的な課外活動」と位置付けられている。
 しかし、一方で、「おお、平居はやっぱりいいこと言うなぁ。私は帰宅部でバイトに専念だ」というのがいいとは全然思っていない。自分の時間の使い方は自分で考えてもらえばいいのだが、高校時代にしかできないことをやった方がいい、とは思う。また、学校という場があり、仲間がいるわけだから、それを有効に使うべきだ、とも思う。その場合、部活動は有力な選択肢になるはずだ。 

(№1も含めて、その他の記事は省略)