学ばない人たち

 一昨日の夜、家族でテレビのニュースを見ながら、「学ばない人たちだなぁ」とぼやいていた。言うまでもなく、官房長官政治資金規正法に触れることをしていたことが確定的になったのに、本人も辞意を示さず、首相も更迭を考えないことについてである。
 岸田政権になってから、既に何人かの政府高官が辞任・更迭に追い込まれたが、事件が発覚した当初は必ず、「説明責任を果たした上で、なお一層職務に専念する」とか、「更迭は考えない。職責をしっかり果たしてもらう」 などと言っていて、数日のうちに辞任・更迭が不可避となるというパターンを繰り返してきたのである。にもかかわらず、今回も同様の轍を踏む。早くも昨朝には、「官房長官更迭不可避」などの報道が飛び交っていた。ほら見たことか・・・。
 私自身は、「問題発覚、即辞任」が必ずしもいいとは思っていない。しかしそれは、現職に留まって職責を果たすことの方がいいと考えるからではなく、辞めれば、うやむやになるまでの時間が短くなり、国民が真面目に考えないからだ。本当は、次の選挙まで引っ張って、国民に判断させ、問題があれば、役職どころか議員の地位を与えない、というのが一番いい(→参考記事)。
 ただ、それはあくまでも私の考え。首相も官房長官もそんなことはまったく考えていない。おそらく、彼らには、たいしたことにはならない、という意識があるのだ。
 政権へのダメージを最少限にしたいなら、すぐに辞めさせるか、最後までのっぱらせるかだろう。繰り返されるタイミングのずれた更迭劇は、首相や取り巻きの愚かさを語って余りある。
 例えば、Tという某女性閣僚などは、自分にとって不都合な総務省放送法に関する内部文書がねつ造であると主張し、それがねつ造でなければ自分は議員辞職すると公言しながら、平然と地位に留まっている。どう考えても、それがねつ造である可能性などなく、それが仮にねつ造であるとすれば、あらゆる行政文書が信用できなくなるという重大問題なのに、である。困ったことに、もはや国民は、そんなことは憶えていない(おそらく)。モリ・カケに関する安倍元首相の対応も同様。哀しいことに、のっぱればほとぼりは冷めるのである。
 この国民の冷めやすさ、忘れやすさというのは、目の前の利益だけを考えることと表裏一体の関係にあるだろう、と私は思っている。過去についても将来についても、時間の射程が非常に短いのだ。政治家も同列だし、同時にそのような国民の性質がよく分かっているから、多少の策らしきものを弄した上で、あとは忘れるのを待つのである。2~3ヶ月も経てば過去の出来事になり、そのことを問題にし続ける人がいれば、「いつまで何言ってんの?」と白い目で見られることになるに違いない。
 ある意味で、首相には図々しさが足りない。だから、のっぱれば国民が忘れるものを、わずか数日経った時点で騒ぎが大きくなってくると、あわてて前言撤回、更迭だという話になるのである。その点、Tは国民というものがよく分かっている。まるで吐き気がするほどだ。
 彼らが愚かな対応を取ることで、政権が崩壊すれば、それは私の望むところ・・・と言うのも、実は少し難しい。岸田政権が倒れても、権力と金にあくどい自民党の体質が変わるわけでなく、代わりに優れた人材がいるわけでもない。中身が同じで、顔つきが多少違う人が政権の中枢に立って、相も変わらぬ政治を行うばかりであろう。
 「学ばない人たち」が国の「指導者」であることのマイナスは、あらゆる場面で現象化する(している)。しかし、彼らを選んでいるのは国民である。政治家のやっている汚いことも、自民党の体質も、誰が見ても分かるようなものなのに、選挙のたびに同じ自民党の候補者を国会に送り込む。すると、結局、「学ばない」のは国民なのだ。民主主義は哀しい。