斜めから「能登」を見る

 能登地震について、絶えずものを斜めから見ている者の視点で書いておく。
 1月1日、地震が発生した時、私は仙台市郊外の母の家にいて、家族6人でトランプに興じている最中であった。「これで最後ね」などと言いながらカードを配り終えた瞬間、その室内にあった3台のスマホが、一斉に緊急地震速報の警報音を発した。全員びっくり仰天してカードを放り出し、身構えると、部屋がゆさゆさと揺れ始めた。さすがに宮城県ではたいした揺れではなかったが、少し長かった。誰かがスマホを見て、「能登だ!」と言った。
 その後は、テレビの全ての番組がジャックされたかのように、正月番組を全て取りやめて、地震一色になった。まぁ、そんなことは私がいちいち報告するほどのことでもない。
 ただ、それらの番組、あるいは、今日だってNHKの7時のニュースが、能登の大地震から3週間とかで30分延長になり、延々と被災地の惨状を放送しているのを見ていると、これらの報道はいったい何のためなんだろう?という思いが湧き起こってくるのを、どうすることもできない。もちろん、首相官邸の防災服なんてまったくの茶番だ。
 というのも、同じような映像が延々と流れるというだけではない。現地の受け入れ体制が出来ていないからということで、ボランティアも受け入れない、個人で荷物も送るな、と言っている中で、膨大な情報だけがあってもどうしようもないではないか。また、その放送の中で繰り返される、身体を動かせとか、暖めろとかいった細々とした注意は、現場でも役場職員や災害救助の専門家が繰り返しているはずのことである。なにも、東京から連呼しなくてもよかろうに、と思う。
 つまり、多くの報道は、野次馬根性でテレビに見入っている人間にとってのみ価値があるような気がする。あるいは、とにかく世の中の人というのは悲劇と英雄、言葉を換えれば「かわいそうな人」と「超人的な能力を発揮する人」が大好きだということからすれば(→参考記事)、被災地は「かわいそうな人」の宝庫なのであって、その姿を映し出すことは、視聴率を稼ぐにはもってこいなのだろう、とも思う。NHKは視聴率なんか気にする必要はないだろうという人は甘い。たしかに、営業収入とは無関係かも知れないが、多くの人が見ていると思うと、その報道に意味があるかどうかに関係なく、嬉しくなってしまうのが「人間」というものである。 
 そして、ははぁ、学校と結局同じだな、とも思う。つまり、能登地震が大災害だとなれば、それに関係することを放送し、注意や慰めを連呼していれば、何かをしているような自己満足に浸れる。逆に、それをしなければ自分が被災地に対して冷たい人間であるかのように感じてしまう、という心性がそこにはある。おそらくは、そのために、意味があってもなくても、ひたすら大変だ大変だと騒いでいるのである。そうすれば自分が「頑張っている」「俺は冷たい人間ではない」として安心できるのだ。
 地面が隆起し、港が完全に使えなくなってしまった光景は、生きている地球、あるいは過去数億年の地球の動きの一部を目の当たりにしているようで感動的だ。と書けば、私が被災地に対してとても冷たい人間に見えるだろう。漁ができなくなった漁業者のことをどう考えるのか?と激怒する人もいるかも知れない。
 大丈夫。今の現実だけを見て悲観する必要など全くないのである。東日本大震災で、どれほど過剰な巨大土木工事が行われたか、ということを考えてみるとよい。大震災は善意を装って土木工事(=経済活動)をするための千載一遇のチャンスだ。能登の現状を見ながら、表面的には同情を示しながら、内心で心躍らせている政治家、土建業者は絶対にたくさんいる。隆起してしまった地面を掘るなり、隆起した地域を埋め立てて、更に沖に港を作るなり、そんなことがあっという間に行われるに違いない。しかも、新しく作られる港は、震災以前のものより数段立派なものになるだろう。
 「地球沸騰化」に人一倍危機感を感じている私として、被災地は膨大な資源を投じて、更に全体の環境悪化を促進させる悪夢の場所である。
 現実に、いま苦しい思いをしている被災者の存在に胸を痛めつつ、被災地をめぐって行われている様々な自己満足や、今後行われるであろう便乗的で狂ったように過剰な「復旧・復興」を想像しては、更に激しく胸を痛める私であった。