ほら、やっぱりね。

 昨日の毎日新聞「教育の森」欄に、「教職員の4人に3人『自腹』経験」というかなり大きな記事が出た。千葉工大の福嶋尚子准教授が調査したところ、公立小中学校の教員1034人のうち、75.8%が自腹を切ったことがあると回答し、総額が2500万円に上った人もいるという。自腹の内容としては、授業に関するもの(教材類)が最多で58.8%、次いで旅費が37.1%、部活動22.6%と続く。2022年度1年間の平均額は、「授業」で13,526円、「部活動」で13,017円だったらしい。
 ああ、やっぱり。今年の2月に河北新報が、公費で買い物をした際、クレジットカードやポイントカードに付いたポイントを着服するケシカラン教員がいる、と「ポイ活」教員批判を行った。その時私は、そんなポイントなんて些細なもので、教員は自腹を切ることも多いのだから、どちらにも目くじらを立てず、なあなあで円満な関係を作った方がよい、みたいなことを書いた(→こちら)。今回の毎日の記事で、その認識の正しさは証明されたわけだ。しかも、教員が「着服した」とされたポイントは、小中学校で1人あたり41円、高校で72円だった。自腹の13,000円余とのあまりにも大きなアンバランスに今更ながら驚き、それを「ポイント制度を乱用」、「ポイントを私物化」と書き立て、「せこい」だの「モラル欠如」だのと非難することにうんざりする。私が2月に「『せこい』のはどっち?」と書いたのは、実に正しい。
 いやいや、自腹なんか切らずに、正統な支出なら請求し、学校に出してもらえばいいではないか、などと非難するのは学校現場を知らない人の話である。そもそも、「公」というのは甚だ杓子定規で融通の利かない世界である。お金を請求するためには、多くの場合、年度の始めに予算化しておくことが必要だ。しかし、人間は動きながら考える生き物である。生徒と向き合っていろいろなことをしているうちに、「あ、こうしてみるといいかも」などと思いつき、そのためには○○が必要だ、という話になることが少なくない。仮に、予備費のようなものを使うにしても、今や社会問題化さえしている多忙な学校で、そのための手続き(説明や書類)に煩わしい思いをしてはいられない、ということになる。
 生徒の前に立っていると、学校から「お金がないから出せません」と言われても、買わざるを得ない、行かざるを得ない、ということがある。部活なんか、元々教育課程に位置づけられているようないないような曖昧な存在だからなおさらだ。
 我が山岳部だと、登山経験の無い人が顧問になった場合、少なくとも10万円前後の初期投資が必要となる。補助金を出してくれる学校と出してくれない学校とがあるが、おそらく全額出してくれる学校は無い。道具は使えば消耗する。初期投資で買った道具を数年後に買い換えることが必要になった場合、補助金を出してくれる学校は間違いなく無い。そんなもんだ、と諦めている人もいるし、多少はぶうぶう文句を言う人もいる。ぶうぶう文句を言っても、お金は出してもらえず、山岳部顧問を辞めさせてもらえることもなく、何月何日に山に行くぞと言われれば、結局自腹で道具を買うしかない。こんな例はゴマンとある。
 私の感覚からすれば、自腹を切ったことのある教員が75%(4分の3)しかいないことに、むしろ驚くほどだ。
 一方、教員の仕事の恐ろしいところは、授業の準備と自分の勉強の境目がはっきりしないことである。これは、教員に残業手当を出すべきか否かという議論と同じなのだが、教材研究のために本を買うのが、果たして公費の対象として適切か、という問題がある。公と私の線引きは難しく、甘い顔をした日には、何でもかんでもみんな公費だということになりかねない。やはり、それはそれでまずいだろう。
 実感はないが、聞くところによれば、公務員の中でも教員の給与水準は高いらしい。だとすれば、そのような曖昧な部分を私費で処理することを前提に、高めの給与が設定されていると考えるべきなのではないか。
 とにかく、「ポイントを着服するなんてせこいぞ」「だったら、俺たちが自腹を切っている分、全て公費で出せよ」みたいなギスギスしたやりとりは止めた方がいい。私は河北新報の「ポイント着服批判」に、今なお強い憤りを感じているのである。