今日、石巻は最高気温が25.4℃で夏日になった。1週間続いた桜の満開もついに限界となり、今日は絵に描いたような桜吹雪だった。あまりにも天気がいいし、杉の花粉もピークは越えたと思ったので、久しぶりで牧山に走りに行った。よほど多くの人が歩いているだろうと思ったら、山中出会った人はたった1人だった。さて本題・・・
米の値段に関する報道に接しない日がない。最新のデータ、すなわち4月14日時点での小売価格は5㎏が4214円で、昨年同時期の2倍を超えているという。
私は二つのことを思う。
一つは、なぜだろう?という素朴な疑問だ。昨年の米の作況指数は101。つまり米の出来は決して悪くなかった。収量で言えば679.2万トンで、不作だった2023年を18万トン上回っている。もっとも、2021年までは700万トンを超えていたが、2022年(670.1万トン)以降低迷気味で、翌年6月時点での民間在庫量は、180~200万トンが適正であるのに対して、今年も160万トンを下回ると予想されていたから、決して十分とは言えないのは確かだ。しかし、政府は備蓄米21万トンを放出すれば、180万トンに達するわけで、これほど米不足が騒がれ、1年で値段が2倍になるほどの事態には思われない。
一時は、高騰を狙った出し惜しみということもずいぶん語られたが、既に備蓄米の放出が始まり、次に新米が出回るまで半年もない時期に、まだ出し惜しみをしていることもないだろうと思う。どう考えても、米そのものが不足し、値段が2倍になるというのは変である。
私は、かなり以前から米の値段の安さを問題視しているので、米の値段が上がること自体はいいと思うのだが、何しろ値段の上がり方が急すぎるのと、お金がきちんと農家に回っているのかどうかが怪しいという点で、全面的な肯定は出来ないでいる。米はどこに消えているのか?
もう一つは、いくら高くても、買えるうちはいい、ということである。全国的には米不足が言われるものの、我が家の近くのスーパーでは、常に米が売られている。高いけれども買えるのだ。私は、このまま地球環境が悪化し、しかも農業政策の貧困(=第2次産業優先、安易な輸入依存)によって離農が進めば、お金を出しても米が買えない日は、さほど遠くない将来に間違いなくやって来ると思っている。米だけではない。多くの食品がだ。だから、5㎏4000円の米を見ても、「お金を出せば買えるうちはいいなぁ」と思うのである。
しかも、いくら高くなったとは言っても、1合(茶碗約2杯)の値段は100円に過ぎない。立派な家に住み、立派な車に乗り、スマホやパソコンを持ち、趣味に数万円単位のお金を使うようなぜいたくな生活をしながら文句を言うべき値段ではない(→関連記事)。
そういう人たちが国会議員を選ぶと、今のような貧困な農業政策が行われるようになる。食べることは生物としての人間の原点だ。現在、アメリカとの間で関税に関する問題が議論になっているが、かつて行われたような、車を売るために農業を犠牲にするようなことは絶対にしてはならない。将来的に、日本人が食べていけるような農業政策を実施することは、何をおいても必要なことである。
ともかく、米は一体どこに消えたのだろう?