工夫只是簡易真切



 明の嘉靖丁亥(1527年)10月のこと、今でも中国で最も知られた思想家の一人である王陽明は、吉安という町で、300人にも上る好学の士を相手に、学問を語っていた。長い講演と議論の後、別れに際して陽明は次のような言葉を残した。「工夫只是簡易真切。愈真切愈簡易、愈簡易愈真切」、穏やかに訳せば「勉強というのは単純で本物であることだけが求められる、本物であればあるほど単純で、単純であればあるほど本物なのだ」とでもなろうか。これは、当時の中国の知識人が、自分たちのよりよい生き方を模索する中で、どんどん煩雑な方向を目指し、それによってますます真実が見えなくなっているという状況に対する、陽明なりの批判である。多くの人々は、聖人(理想的人格者)を目指すという目標が大きいだけに、ついついそこに至る道も極めて困難なものであるはずだと思い、困難な道は複雑でなければならないと思ってしまう。陽明が提示する単純な学問の道に対しては、そんな単純なやり方で大きな目標が達成できるわけがないと考える。単純なことでも、それを極めることは困難なことであり、本当の困難はむしろその中にこそあるということになかなか気づけない。その結果、やることは増え、どれもが徹底されず、結局多くは身に付かない。にもかかわらず、人は、うまくいかない原因を今までのやり方が間違っているからだとかまだ足りないからだと考え、もっと何かしなければ、とあくせくし、ますます真実から遠ざかる。陽明がここで問題としているのは、そのような自滅への道なのである。

(『学年の手引き』に掲載)