「部活動」の横暴を許してはいけない



 昨日の続きのような話であるが、私が、前任校の山岳部のコーチとして、時々山に付いて行くのは、私にとって決して「部活動」ではない。「社会活動」である。そもそも、多少タテマエ的なところはあるのだが、私は前顧問だからという理由でコーチになっているわけではない。私は、かつて顧問をしていたという理由で、「仙台一高山の会」という山岳部OB組織の特別会員ということになっている。昔から、「山の会」では毎年5名のコーチを現役部員のために派遣していたが、現在の人的事情で、最も生徒に同行しやすそうな人間として、今は私がその5人に入っている、ということである。だから、私の意識として、コーチは「山の会」のおじさんによる「社会活動」、もしくは「ボランティア」なのである。

 そんなことを思いながら、ちょっと教員の仕事としての「部活」について、思うところを整理しておこうという気になった。

 私は生徒時代から「部活」が大嫌いだ。「部活」は際限なく時間を奪う上、タテの序列に敏感で学校ナショナリズム的心性を養う、極めて日本的・軍隊的な組織である場合が多い。特に、教員になってからは、勤務時間との関係もあって、このような組織が、なぜいまだに高校教員の職務としてまかり通っているのか、不思議に思う気持ちが強い。

 私も概ねそうであるとおり、「部活」に否定的な教員が、その理由として挙げるのは勤務時間の問題である。そもそも、一般に8時30分頃から17時ころまでの法定勤務時間内に、15時30分頃まで授業やHRがあり、その後、会議等も多いのに、部活動の入り込む余地があると考える方がおかしい。いや、「部活」が無くても勤務時間を守れないのが、今の高校の現実であろう。

 先日、とある場所で目にした2007年度の教育総研「教職員労働国際比較研究委員会報告書」によれば、2007〜8年度における教員の実質勤務時間は、次の通りである。(持ち帰り仕事を含む週の勤務時間、1日の休憩時間、夏季休暇)

 日本     (61時間34分、19.9分、5.7日)

 フィンランド (37時間34分、45.7分、63.2日)

 スコットランド(45時間09分、49.6分、36.2日) 

 イングランド (51時間20分、44.7分、29.7日)

 小中高が一緒に扱われ、その違いが明瞭に示されていないという恨みがあって、目安にしかならないのだが、日本の教員の労働時間の長さが際だっていることだけはよく分かる。

 データの詳細な比較検討結果を読むと、いろいろな事情の違いはあるようだが、これほど大きな勤務時間の開きが出る理由として非常に重要なのは、「文書作成」と「部活」「進路指導」である。中学・高校に限定すれば、「部活」「進路指導」の重要度は更に増すだろう。狭い知識の範囲ではあるが、私は、日本のような形で「部活」という校内活動を持ち、教科やHRの担当教員が、それの指導にも当たるという国は、世界中探しても存在しないのではないかと思っている。「進路指導」は時間的負担こそ大きいが、アンケートによれば、教員の負担感は小さく、それは「進路指導」を自分の職務として納得して受け入れているからのようだ。話は「部活」に絞る。

 思うに、もともと「部活」は、生徒の自主的活動が校内で認められたものだった。顧問がついたとしても、多くは何かがあれば相談には乗るといった体の、正に「顧問」だったに違いない。私は、高校時代「天文物理部」なる組織に所属していたが、顧問の存在感はゼロに等しかった。部の性質上、学校の天文ドームに泊まり込むこともしばしばだったが、事前の許可書の取得に顧問のハンコが必要だっただけで、今から思えば信じられないことだが、顧問は泊っていなかった。

 ところが、時代の変化と共に、「よき無責任」が許されなくなり、何にでも教員の責任が厳しく追及されるようになると、「顧問」は「顧問」ではいられなくなった。やったことのないスポーツでも指導することが求められ、必ず生徒に付き添い、放課後7時、8時、いや、学校と部によっては10時までも練習、その上、土日は練習試合、長期休業中はそれらに合宿が加わる、ということになったのである。前述の報告書でも、分析では日本の教員が授業(準備を含む)に割く時間の短さが指摘されているが、「部活」のしわ寄せが、教員の本来の職務の中心とも言うべき授業に行くのは当然である。それを軽視するのは不思議なことだ。

 しかも、授業時数の確保はうるさく言われるようになり、長時間通勤者は非常に増えたのだから、教員の生活の質の低下は著しいはずである。ちなみに、金銭による補償で言えば、休日の部活指導には手当てが支給される。私が教員になってからの23年間で、休業日に4時間以上部活指導に従事した時に支給される「特殊業務手当」は、600円強から2400円(?)と4倍に増えた。それでも、これは時給ではなく日当であり、4時間未満では支給されず、10時間でも同額である。更に、受給のための手続きは非常に面倒になった。

 このような状況でありながら、「部活」がほとんど無傷で健在なのは、「部活」を重視する人たちが、以下のような主張をするからである。

1)生徒からだらだらと遊ぶ時間を奪い、更に集団行動をしながら礼節指導等をすることで、生活指導上の効果がある。

2)優秀な成績を納めれば、学校宣伝効果が大きい。

3)教員自身が「部活」大好きで、そのために教員になった。指導者として、現役時代以上の成績を目指す。

4)そもそも教員という職業は、勤務時間を気にしながらやるべき仕事ではない。(仕事は全てに優先する。勤務時間に関係なく仕事を優先させるのは美徳である、という日本的勤労観を含む)

5)生徒や保護者が望んでいる。「部活」は生徒のためだ。

 1の生活指導効果、2の宣伝効果の問題なら、私もその価値を認めている。もっとも、学校が生徒の生活にどこまで責任を持ち、面倒を見るかは意見の分かれるところで、私は、学校が何もかも抱え込み、責任を背負い込むようなことはすべきでない、学校の役割を限定すべきだ、と考えているので、そういう点では、生活指導効果は、あくまでも教員が勤務時間内で「部活」が出来るなら、という実現不可能な条件付きの評価だ。

 3の、「部活」が大好きで、「部活」をするために教員になるというのは迷惑な話だ。大義名分を振りかざして、自分の趣味に他の教員を巻き添えにし、多くの不幸を作り出している罪は大きい。

 4の、教員という職業は、勤務時間など気にしながらやるべき仕事ではないのだ、というのも暴論である。各自が、自らの問題意識に従って時間外労働をするのはよい。しかし、その強制をシステムとして構造化するのは別の話である。教員だけではないと思うが、誰しも、よりよい仕事をしたいと思えば、日々研鑽に励む必要があり、それは必ず無限の作業になる。その意味で、教員が勤務時間を気にしながらやるべき仕事でないというのは正しい。しかし、それが義務的な仕事を増やすことを正当化する根拠になってはならない。

 それとほぼ同じことで、5のように、「生徒のため」と言えば全てが許されると思うのも暴論である。「部活」によって時間を奪うことは、いかにも「生徒」のためのようでいながら、長期的には生徒に大きな不利益を与えることにもなる。それは、以下のような理由による。

 教員を「部活」のような無限の労役に駆り立てることは、その教員の勉強の時間を奪い、家庭生活の時間を奪い、社会活動の時間を奪う。「部活」をやっていればいかにも「生徒のために」仕事をしているようだが、それ以外の時間の使い方をする中で、一人の人間として豊かに成長し、生徒に還元されていくということが忘れられるのはまずい。フィンランド人の学力が高いということには、私も以前(昨年10月下旬7回連載)多少の整理をし、指摘したように、実に様々な原因がある。しかし、教員が自由に出来る時間を豊かに持ち、その中で様々な体験と勉強をしていることが、非常に優秀な教育を行う素地となっていることも間違いないだろう。義務は人をダメにするばかりで、育てない。自由意思に基づく勉学と試行錯誤だけが、その人を大きくするのである。世間の人々にも、「部活」が教員の仕事だとは思わないで欲しいものだし、そのための啓蒙も必要だ。

 学校の中(日本の世の中?)で今行われていること全てに共通するのは、大変な思いをしていれば何事かを成し遂げているような充足感を得ることが出来るということであり、その結果、長期的視野に立てば大きな損失が発生していることについては至って鈍感だ、ということである。

 私は、法定勤務時間を守り、教員が健全な社会生活をするためには、「部活」を禁止(廃止)するか、専任教員を置くか、教員を午前の教員と午後の教員に分けるかしかないと思っている。そして、「部活」を生徒に強制しない限り、「部活」のメリットよりはむしろ、校内の任意の活動を制限すべきでない、生徒の活動は積極的にバックアップすべきだという理由から、廃止ではなく、専任化すべきであると考える。しかし、「部活」は、教育を安上がりに済ませるという政策とも連動しているので、実現は難しい。

 毎年、県教育委員会からは校長に宛てて、職員の勤務時間を適正にするようにという通知が出ているが、「部活」に手を付けない限り、勤務時間が守られる可能性はない。「部活」の問題については、前記3との関係があり、教職員組合も内部対立を生むだけで、力にはならない。しかし、組合への加入の有無に関係なく、「部活」で苦しみ、「部活」によって消耗し、これが自分の本来の職務なのかという疑問を持ちながら、自らを高める余裕も生活の豊かさも失っていることに問題意識を持つ教員は少なくないだろうと思っている。「部活」を勤務時間との関係で、明確に位置づけることを求める運動は、組合とは別個に、有志としてでもすべきなのではないだろうか?

 とは言え、「部活」の廃止にしても、専任教員の配置にしても、そこには極めて高いハードルがある。だから、現状の中で何が出来るかを考えてみると、授業やHR等を疎かにすることなく、「部活」に熱心に取り組む人は大いに評価し、支援する、しかし、生徒全員への加入の強制や、1週間当たりの活動時間ノルマを課したりはしない、部活指導を熱心にやらない人を批判しない、そして制度上の「鬼っ子」として、出来るだけ「なあなあ」で済ます、といったところではないだろうか。それでも、生徒や保護者の意向もあり、それを無視できず、犠牲になる教員は必ず出る。しかし、不幸にして、今はそれをゼロにすることが出来ない。

 申し訳ないことに(と書きたくなるところが、そもそも問題だ)、私は現在の勤務校で、「書道愛好会」という所の副顧問であり、平日も遅くはないし、土日も「部活」のために拘束されることがない。だからこそ、夕方の子育てゴールデンタイムに自宅にいて、子どもたちと接することも可能で、土日の社会活動も出来る。今書いてきたことは全て一般論である。しかし、校長の腹一つで、来年は硬式野球部やサッカー部を担当させられることもあり得る。私の、山岳部コーチ活動も、このような薄氷に乗った状態で、かろうじて可能になっているのである。

 もう一度書く。私にとって、山岳部のコーチは社会活動である。昔から山登りを愛してきた一人の大人として、同じ趣味を持つ仲間を増やすために行くのである。生徒の方も、無理矢理山岳部に入部を強制されたりしてはいない。スポーツの指導のあり方としても、これは最も幸せな状態だ。これが、私だけの例外的状況であってはいけない。中学高校の教員は全て、「部活」という魔物から自由になり、授業の前提となる豊かな学識の吸収と、家庭を含めた一社会人としての活動に時間を割くべきなのである。それこそが、結果として「部活」以上に豊かな教育と社会を生むだろう。「部活」は、廃止できないとしたら、専任化するしかないのである。