藤野厳九郎記念館・・・その1



 出かける前に、福井で手に入る半日の自由時間に何をするか、例によって(←2月6日記事参照)地図を見ながら、面白そうな場所探しをした。私の目に留まったのは、芦原(あわら)温泉にある「藤野厳九郎記念館」である。この名前を見付けた瞬間、「ああそうだった!魯迅が生涯にわたって敬慕し続けた藤野先生という方は、確かに福井の芦原温泉界隈の人であった!」と思い出した。私は、博物館の類にはあまり足を運ばない人間なのであるが、ここは少し見てみたい、博物館としてよりは、藤野先生にゆかりの場所として訪ねてみたい、と思った。私は福井〜三国港東尋坊芦原温泉(記念館)〜福井と、鉄道とバスで半日旅行をすることにした。

 地図を見ていた時には気にならなかったのだが、突然恵那で、月曜日でも記念館は開いているかな?と不安を感じ、ホテルのPCで調べてみた。さいわい休館日は火曜日だったのだが、地図に書いてある場所とネットに示されている場所が違うことが気になった。当然、ネットの方が正しいだろうと思った。

 ところが、東尋坊でバスに乗った時、運転手に尋ねてみると、運転手は地図と同じ場所を教えてくれた。私は、地元の運転手の方が正しいと信じた。言われた通り、バスを舟津という場所で降りる。35度くらいあるであろう炎天下を、だらだらと坂道を上って記念館に着くと、扉は閉まっていて、駅前に移転した旨、貼り紙がしてあった。日本語だけでなく、中国語による貼り紙もあったことが、訪ねて来る中国人の多さを感じさせる。なんのことはない、ネットで調べたとおりの場所である。再び私は1キロあまりの道を歩き、さんざん汗をかきながら、「あわら湯のまち」駅に向かった。まあ、旅行というのはこういうものであろう。

 新しい記念館は、駅のすぐ前である。江西省から来たという中国人女性が一人で受付にいた。他に客はいない。迷った話をすると、昨年の10月に移転したばかりなので、まだ知らない人も多いのだろう、と答えた。

 新しい記念館の建物に隣接して、三国にあったという藤野先生の診療所兼自宅が移築されている。正面に、椅子に座っている藤野先生の横にノートを持った魯迅(周樹人青年)が立つ銅像が建っている。

 現代中国を代表する作家魯迅は、1904(明治37)年9月から翌年3月まで、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に学んだ。この時、解剖学の教師であり、ノートの添削を親身になってしてくれた藤野厳九郎先生について、深い敬愛を込めた一文を、1926年10月にしたためている(以下は竹内好訳、新『魯迅選集』所収)。


 「私は今でもよく彼のことを思い出す。自分が師と仰ぐ人の中で、彼は最も私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。(中略)彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少ないかも知れぬが。」

 「彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んで怠けたくなるとき、仰いで灯火の中に、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子(=支配階級)」の連中に深く憎まれる文字を書き続けるのである。」


 私の、魯迅と藤野先生に関する知識のほとんどは、『仙台における魯迅の記録』(平凡社、1978年。)によっている(その後、東北大学出版会から魯迅・仙台関係書籍が2冊出ているが未見)のであるが、そこに引かれた様々な証言や資料を見ると、『藤野先生』は、かなり正確に魯迅と藤野先生に関する実際の状況を描いていると言える。

 1926年と言えば、満州でのゴタゴタまではまだ若干の時間があるので、魯迅が、排日姿勢を強める一方で、宥和的にこの文章を書いたなどということはない。魯迅の敬愛の念は、極めて純粋な本心と見てよいであろう。魯迅が死ぬ前年に当たる1935(昭和10)年、日本で初めて『魯迅選集』が岩波文庫として刊行された際、作品の選択について魯迅に問い合わせをしたところ、基本的に選択は一任するが、『藤野先生』だけは入れて欲しいという注文があった(新『魯迅選集』解説)。日本で刊行される『選集』であることを意識していたとしても、このことはやはり、作品とともに、藤野先生自身に対する魯迅の強い愛着を表すのではなかろうか。(続く)