中国の印象



 予告通り、8月5日から17日まで一人で中国に行っていた。実質的には11日間に過ぎないが、今時の高校教員にしては贅沢な時間の使い方が許されたものだと思う。

 泊まる場所や列車の切符の心配をしながら旅行するのを、意外なほど面倒に感じた。旅行それ自体が目的ではなかったというだけではない、年齢による衰えが少なからずあるように思う。少し寂しい。

 往路、上海の空港で、日本語を話す二人連れとすれ違った後、次に日本語を耳にしたのは、最終日、北京の空港でだった。驚いたことに、その間、一人の日本人をも見かけなかった。最初の2日余りは、中国を代表する観光都市・西安にいたわけだから、多分ツアーの日本人はうじゃうじゃいたはずなのに、私の泊まっていた場所も、興味関心の対象も、それほどまでに一般とは異なっていた、ということなのだろう。

 西安の次は、延安だった。1937年から10年間、日本と国民党を同時に敵としなければならない最も苦しかった時期に、中国共産党の指導部が置かれていた「紅い都」「革命聖地」である。最近、日本で出ている旅行ガイドにも、この町を紹介するものが現れたので、日本人も訪ねるようになったのかと思っていたら、まったくそうではなかった。宿探しをすれば、「外国人は『〜国際酒店(酒店は中国語でホテルの意味)』という名前の付いているホテルしか泊まれない」(←事実に反する)と、悪意なく断られてしまったし、市の中心部の中国銀行に両替に行けば、初めて日本のパスポートを見たという女性行員が喜んで、みんなでのぞき込んだ上、「『平居』という姓なのに、英語でHIRAIと書いてあるのは変だ」と物議を醸して(←中国語では「平居」をPINGJUと表記(発音)する)両替に手間取る、といった具合であった。

 西安は、私がかつて生まれて初めて訪ねた外国の街である。1982年8月のことだから、ちょうど30年前になる。北京も20年ぶりの訪問だった。覚悟はしていたものの、街の様子は激変し、特に西安は変わった。外国人の個人旅行が許されていなかった当時、私は南の街外れにあった西安外語学院に3週間ばかり滞在した。多少の懐旧の念と、中国社会の変化を確かめるために、今回の旅行の目的とは関係なくても、この学校だけは訪ねてみたいと思っていたのだが、西安外語学院は西安外国語大学となって巨大化し、30年前よりも街に近い所に移っていた。西安外語学院がもともとあった場所は、それがどこかさえ探せなかった。昔の写真と地図とを持参していれば面白かっただろうと思う。

 20年前の北京では、精華大学に滞在していた。近くにあった中関村という静かな場所には、当時、北京大学の理科系研究機関がいくつかあり、それがその後「中国のシリコンバレー」として発展、一部は「中国の秋葉原」となって多くの電気店が集中しているという話は聞いたことがあったが、実際は予想をはるかに上回っていた。私には、秋葉原に数倍する「電気都市」に見えた。

 西安(北駅)から延安へ(326キロ)、延安から北京(西駅)へ(949キロ)は、列車で移動した。その昔、共産党の思想と活動とに共鳴し、国民党支配地域の最前線・西安から延安を目指した人は、運良く車に乗ることが出来、それがスムーズに走ったとしても、丸2日間かかって延安にたどり着いていた。それが今や、中国新幹線「和諧号」でたった2時間20分である。延安で北京行きの切符を買う際、北京まで10時間余りと聞いて半信半疑だったのだが、列車は本当に10時間15分で北京に着いた。電気機関車が18輌もの大きな客車を引いて、途中3駅に止まるだけで、狂ったように走り続けた。以前、私はこのブログではない某所で、「中国の列車は滔々と走る」という表現を使ったことがあるのだが、現在はそんな優雅な表現は似合わない。今なら「驀進する」という表現を使うだろう。空港の巨大化と、飛行機の増加については、表現すべき言葉が見当たらない。

 人間の五感において、「嗅覚」というのは非常に記憶性の高い感覚だと私は思っている(2010年5月18日記事参照)。かつての中国のみならず、発展途上国の街には、バイクや車の青白い排気ガスが濃く漂っていて、それが街の匂いとなっていることが多い。ところが、中国のバイクはほとんどが電動になっていて、車の質も向上し、排気ガスの匂いが消えた。場末の食堂街では、いまだに練炭がよく使われていて、その匂いだけが、私にかつての中国の記憶を呼び起こした。

 この20年間中国に行く機会がなかったわけではないし、皮相な新旧中国比較を書くことが本意でもない。ただ、西安、北京があまりにも久しぶりだったのと、自分の印象を簡単に書くためには好都合だっただけの話である。