ジョナサン・ハイトの道徳心理学

 1月にある卒業生からメールをもらった。ジョナサン・ハイト『The Righteous Mind 社会はなぜ左と右に分かれるのか−対立を超えるための道徳心理学』(紀伊國屋書店、2014年)を読んで感動した、といった内容であった。
 「本物」についての嗅覚が信頼できる卒業生だし、読んでみようかという気になって、近所の本屋に注文した。ところが、これがいつになっても届かない。注文してから1ヶ月以上たった2月の下旬、さすがにおかしいと思って、私は本屋に問い合わせた。何かの手違いで、取り寄せの作業は進んでいなかった。注文したときの反応もよくなかったし、これではいくらこちらが地元の本屋を支えようと思ってAmazonを排除しても(→参考記事])勝てないわけだ、とため息をついた。書店の存続に対する危機感が、一利用者に過ぎない私自身よりも薄いと感じる。結局私は、3月上旬に出版元でもある仙台の紀伊國屋書店で購入した。
 ところが、この時既に、4月から仙台方面への移動がほのめかされており、再び電車通勤となることが見えていたので、無理に時間をとって読まなくても、4月以降読書の時間はふんだんにあるさ、読書はすべて後回しにしようと放置してあった。
 電車通勤も2週間あまりが過ぎ、この間に2回通読した上で、ページを無秩序にぱらぱらとめくりながら考え事をしていた。それなりに価値を認めたからであるが、本の書き方が下手であるためでもある。実験や調査を枠囲みででもはっきり分かるようにレポートした上で、それらからどのような考察が可能か、という形で整理してくれればいいものを、実験や調査が地の文に埋もれている。構成も上手いとは言えない。
 一方、ある意味では、とてもいい本である。「ある意味では」というのは、私が直感的に感じていたことことを、心理学者という立場で実証的に語ってくれているからである。しかし、今「私が直感的に感じていたことを」と書いたとおり、私のようなど素人には気づき得なかったことを取り出して見せてくれているかというと、必ずしもそうは言えない。あくまでも、私が感覚的にそう思っていたことを、ああやっぱりそうなんだ、と思わせてくれるだけである。もちろん、それはそれで価値がある。
 日頃、なぜ知識や論理的思考力がないとは思えない高学歴の政治家が、こんなくだらない議論をし、馬鹿な決定を繰り返しているのか?と思う場面は多い。結論は感情的に決まっていて、それを正当化するための理屈を後付けしているだけなのではないか?ともよく思う。作者が本の中で最も繰り返しているのは、「まず直感、それから戦略的思考」ということで、これは正に、そのような私の実感そのものである。このような人間理解に立って、作者は「誰かの考えを変えたいのなら、その人の〈象(情動、直観、そしてあらゆる形態の「見ること」を含む自動的なプロセス)〉に語りかけなければならない」と相手を攻撃することの愚を戒め、最後の結論として、次のような戦略を提起する。「即断してはならない。いくつかの共通点を見付けるか、あるいはそれ以外の方法でわずかでも信頼関係が築けるまでは、道徳の話を持ち出さないようにしよう。また、持ち出す時には、相手に対する称賛の気持ちや誠実な関心の表明を忘れないようにしよう。」
 500頁近い考察の末の提言がこれなのだが、実は、このことはもっと分かりやすい形で、既に冒頭から5分の1の所に出てくる。デール・カーネギーの意見の紹介としてだ。それは次のようなものである。


彼(カーネギー)は直接的な対決を避けるよう読者に繰り返し促す。そして「まず友好的な態度で始めよう」「ほほえみを浮かべて」「よき聞き手になろう」「〈あなたは間違っている〉などとは決して言わないようにしよう」とアドバイスする。さらに、説得の秘訣は、経緯、思いやりを相手に伝え、自分の主張を始める前に、まず対話にオープンになることだ、と説く。


 あれれ?これはどこかで見たことがあるぞ。そう。私のブログの2015年2月2日の記事(→こちら)に書いてあることと変わりがないのである。
 だが、人がどのような直感を持つかというのは、あらかじめ決まっているのだろうか?作者は、道徳的価値観がどのように形成されるかについても考察している。それによれば、遺伝的(先天的)な部分も確かにあるが、必ずしもそれが全てではない。後天的要素も非常に大きい。だが、その後天的要素とは、決して「教育」ではなく、むしろ「文化」という長年にわたる蓄積によって確立した、容易には抜け出すことも変えることもできないものの影響が大きいようだ。とはいえ、この部分についての作者の考察は甘い。直感として表れる道徳的価値観を変えることが必要だとするなら、道徳的価値観がどのようにして生み出されるのかということを解明することはどうしても避けられない課題である。そこについての考察が甘いからこそ、上に書いたような、私でも感覚的に思いつくほどのことを、膨大な学問の上に語るしかなくなっているのである。
 もちろん、道徳的直感に「文化」が大きな影響を与えていることに表れるとおり、道徳的直感の源泉がたとえ解明できたとしても、実際の行動に際して力を持つとは限らない。そして、作者が提起する否定を伴わない説得技術も、たいていの場合「分かっているが難しい」ことである。価値観の「対立を超える」ことはやはり容易ではない。ともかく、まずは道徳的直感の発生機序を明らかにすること。それを今後に期待しよう。