インフルエンザと肺炎

 今日は3月13日。今年、東日本大震災の発生した日に記事を書かなかったのは、書かなかったことの意味を考えてもらうとけっこう。日頃、このページを開いてくれている方には分かるだろう。ちなみに、震災について私がどのように考えるか気になるという人は、そのための手引きとなるページがあるので、そこを参照して欲しい(→こちら)。
 昨日、塩釜神社河津桜が開花した。「今にも咲かんばかりにつぼみが膨らんで」いると書いたのが3月2日だから、それから10日もかかったわけだ。結局、開花日は昨年とまったく同じだ。2月22日の毎日新聞には、河津桜の故郷、静岡県河津町で「見ごろを迎えている」という記事が載り、2月18日に撮ったという満開と言ってよいほどの写真が添えられていたから、河津と塩釜の気候差は1ヶ月ということになる。
 
 高校野球は結局中止となった。選手の心中は察するに余りあるが、仕方がない。新聞報道を見ていて内田良・名古屋大学准教授の「そもそも部活動は教育の中では付加的なものだ。文部科学省が授業の自粛(休校)を要請しているにもかかわらず、付加的なものであるはずの部活動の大会を開催するのは説明がつかない。また、他の競技の大会が中止になっている中で、高校野球だけ開催してしまうことは「特権」になってしまうのではないか。」というコメント(毎日新聞)が印象に残った。
 後段は私の見解と同じだが、問題は前段である。そうだ。確かにそうなのだ。私は日頃から、学校における本末転倒ということをよく問題にする。根っこにあるのは部活動だ。そんな私が、今回の件について、内田氏のような視点を持てなかったのは、我ながら少しショックだ。
 だが、そう思った直後、少し違うことも考えた。学校の中心は授業である。授業の多くは教室、すなわち閉鎖的空間で行われる。それに対して、野球やサッカー、ボートやヨットは屋外で行われる。観客席を除くと、人口密度も比較にならず小さい。どちらが危険かと言えば、当然、教室での授業である。だったら、授業はダメだが、部活は許す、ということがあっても不思議ではない。今回の問題について言えば、学校のあり方が問題なのではなく、感染の危険性の多寡だけだからだ。
 昨日、WHOがパンデミック宣言をした。一方、私は暢気で、何度か書いたとおり、肺炎騒ぎの多くは(地域によって違う)過剰反応だと思っている。
 今年度、宮城県では4月と10月にインフルエンザが流行し、私の勤務先でも、4月に東キャンパスが、10月に西キャンパスが学級閉鎖になった。年度末に当たり、生徒の出欠記録をチェックしていてそんなことを思い出したところ、インフルエンザのことが気になってきた。
 調べてみると、厚生労働省のHPによれば、通常のインフルエンザの感染者は、毎年国内で1000万人、死者は少ない年で200人あまり、多い年だと2000人近い。更に、「超過死亡概念」と言って、直接・間接的にインフルエンザの流行によって生じた死者数を数えると、だいたい、世界で年間20~50万人、日本で1万人になるという。今年の2月20日頃には、アメリカでインフルエンザの感染者が2600万人、死者が15000人に達したという報道もあった。いずれも、新型肺炎どころの騒ぎではない、すさまじい数字である。なのに、なぜインフルエンザが霞んでしまうほどの騒ぎになったのだろう?
 おそらくそれは、インフルエンザがやがて収束することが経験的に分かっているのに対し、新型肺炎は今後どうなるか分からないという不安の心理によるのだろう(→参考記事)。

 これまたよく言うとおり、私が最も重要な危機と感じているのは温暖化である。最近も、アマゾン南部で温暖化による火災が激化し(1月11日朝日)、南極の最高気温が更新(18.3℃)され(2月6日各紙)、海の貯熱量が過去最大を記録した(2月21日毎日)などの報道が続く。自然の異変としては、バッタの大量発生によるアフリカ東部の食糧危機(2月5日河北)がある。こんな報道を見ていて、肺炎も自然の人間に対する逆襲のように思えてきた。自然は怒っているのではないか?