10%で何が起きるか?

 先週の土曜日、隣人と立ち話をしていて、最近庭でキツネやタヌキを見ない、という話になった。我が家でも、もう1年以上見ていないような気がする。復興祈念公園の工事が始まる前は、津波によって人工物が破壊され、野生動物の楽園となった南浜町に、相当数のキツネがいたように思うが、工事の進捗とともに居場所を奪われたことだろう。果たして今でも生きているのであろうか、と心配していた。
 そうしたところ、なんとそれからわずか2時間後、我が家にタヌキがひょっこり現れた。皮膚病でほとんど毛が生えていない哀れなタヌキだ。3年前に我が家に来たことのある皮膚病タヌキに比べると色白で、か弱そうな毛がポヤポヤと生えている。同じタヌキであるかどうかは分からない。それでも、「ああ、生きていた」という喜びは大きかった。「生物多様性の維持」ということがよく言われるけれど、野生動物が生きていける環境は、人間にとってもいい環境であるに違いない。キツネはどうなったであろうか?
 ところで、教員の人手不足という話が、かなり前からよく話題になるのだが、最近、いよいよ文科省が本気になって「常識的な」対応をほんの少し考え始めた。なんでも、「定額4%働かせ放題」だった「教職調整額」を10%に値上げすることを考えているという。何もしないよりいいには違いないけれど、「お金よりも負担の軽減を」という声はとても切実だ。
 私は例によって鼻で笑っている。6%の賃上げは大きいが、今でも教員がお金に困っているわけではなし、それで人材が確保されるとはとても思えない。負担の軽減、そして何よりも教員を専門職として尊重することこそが、人材の確保につながるだろう。
 私は、政府が教員の働き方改革を実現させられるとはまったく思っていない。なぜなら、教員の多忙の根源は、政治家が学校を思い通りに=自分の都合のいいように動かしたい、と思っていることにあるからである。「教員を専門職として尊重する」と真逆の発想だ。
 政治家が学校を思い通りに動かすための最大の道具は学習指導要領である。以前書いたとおり(→こちら)、それを10年に一度大きく書き換え、現場に徹底させようと思えば、現場は永久にその作業に忙殺され続ける。
 政治家たちがそのことが分かっているかどうかは知らない。分かっていたとしても、それは彼らにとっての譲れない一線であり、改めようという気は絶対に持たないだろう。あるいは、「人間は見たいと思う現実しか見ない」という本性に従い、政治家にも文科省の役人にも、そんなことは見えていないのかもしれない。そんな最も大切な点に一切触れることなく、形式的な、もしくは多忙解消のパフォーマンスを考え出し、すると、お先棒を担ぐ人間が現れ、それによってますます現場は振り回されるという図式が容易に思い浮かぶ。
 平居はあまりにも悲観的なのではないか、なぜお上を信用できないのか?という人がいたら羨ましい。今までに文科省や県教委がやったことで、信頼や尊敬に値する何があったというのか?少子化でも同様、学術政策でも同様、おそらく政治家や役人が大騒ぎをすればするほどことは悪くなる。
 10%につられて教員採用試験を受けようという若者・・・いるのかなぁ?