そしてついに買えなくなった

 私は、新聞というメディアが大好きである。内容の信頼性と俯瞰性、記事の多様さにおいて新聞の右に出るメディアはないと信じる。そのため、このブログの記事にも、新聞記事をもとにしたものが多い。昨日もそうだった。NIE(学校教育に新聞を取り入れようという運動→参考記事、その記事の下に表示される「関連記事」も)にも思い入れがあって、この10年あまりは県の推進委員も務めている。
 そう言う私は、日々、全国3紙と「河北新報」には目を通す。厳密に言えば、更に2紙。石巻圏限定の超ローカル紙、「石巻かほく」と「石巻日々新聞」もだが、それはオマケ。以前は、「日経」も目を通していたが、値段の高さと入手の難しさによって挫折した。
 そして、新聞を定期購読している家庭が6割を切ったこの時代に、自宅で2紙を取っている。「河北新報」と「毎日新聞」だ。地元の情報を得るために、地方紙の雄「河北」はどうしても必要だし、「毎日」は、今の職場でも取っておらず、かつての職場でも取っていたりいなかったり、その上、町でもなかなか売っていないため、定期購読と決めたのである。
 自宅で「毎日」と「河北」に目を通し、職場で「朝日」と「読売」に目を通す。それが私の日課であり、それに費やす時間は、合計で30~45分くらいではないか、と思う。「タイパ」という言葉が定着しつつあり、映画でさえも早送りで見ようかという昨今、24時間のうちの45分を、毎日、新聞を読むことに費やすのはぜいたく、もしくは無駄のようにも思われるかも知れないが、自分の知識、もしくは教養というものが、それによって支えられていると自覚する私は、なかなかその時間を端折ることができない。
 「朝日」と「読売」を職場で読むということは、出勤しない日は読めないということである。その通り。私が土日の両紙に目を通すのは月曜日だ。
 しかし、今まで、土曜日だけは「朝日新聞」を買っていた。月曜日のまとめ読みを少しでも減らしたいという思いもあったが、「朝日」の土曜版「be」という附録が充実していて、お得感が高いからでもある。
 ところが、半年あまり前から、土曜日に「朝日」を手に入れるのが難しくなった。それまでは、自宅から一番近いコンビニに置いてあったのに、なくなった。やがて、自宅から自転車10分の範囲にあるコンビニで、以前は「朝日」を置いていた店から、全て「朝日」が消えた。最後の砦は石巻駅のキオスク(改めNew days=コンビニ)だったのだが、1ヶ月ほど前から、ついにそこでも買えなくなった。信じがたいことに、捜索範囲を自転車で15分に拡大しても、ということは、石巻の旧市街で「朝日新聞」を1部売りしている店が探せないのである。(ちなみに、半分くらいの店で、「読売」はまだ売っている。)
 私が感じている価値とは逆に、世間の人々の新聞離れが加速しているのは有名な話である。新聞通信調査会のデータによれば、定期購読率は2008年には約90%だったのに、15年後の2022年には58%まで下がってしまった。全国紙の落ち込みが特にひどいという。しかも、年代別で見ると、70代では80%を超えているのに対し、30代では30%に過ぎない。私にとっての「朝日」「読売」のように、取ってはいないが読んでいるという人がどれくらいいるかは分からないが、今後、新聞がどのような道をたどるかは明らかであろう。
 であればなおさら、定期購読しなければ読めない、という状況を作らないようにしないと、状況は更に悪化するはずである。定期購読しようと思ったら出来るのは当然として、1部売りで買おうと思えば買える、図書館のような場所でなくても、医院の待合室や銀行、役場、ホテルのロビーでいろいろな新聞を手にできる、そんな状況を作ってこそ、人が新聞の価値に気付き、また読んでみようかと思えるようになるはずだ。新聞があるのが当たり前という感覚も大事だし、日本人特有の「みんなと同じがいい」という感覚を利用しようとすることも大切だ。
 全国で2番目の発行部数を誇る「朝日」でさえ、15万都市で1部売りが探せない。これはまずいよ。そのうち、元締めの販売店に電話してみよう。