コロナも読売

 今年は、我が家のウグイスの初鳴きがいつか、結局分からなかった。3月15日頃に、妻が「聞いた」と言い出したが、息子は「あれがそうだったかも知れない」という曖昧な認識で、私は「聞いていない」。例年は、初鳴きの少し後から、私自身がまるでウグイスの巣の中に頭を突っ込んで寝ているんじゃないか?と思うほど、目が覚めた瞬間から声が近くに聞こえていたのに、今年はとても遠い。誰かが、我が家の南斜面の草刈りをして、その時、太い藤の蔓をたくさん切ってしまったので、我が家の藪が少し減り、それでウグイスが来なくなってしまったのではないか、などと想像しながら寂しい思いをしていた。
 ところが、なぜか今月に入った頃から声が近い。この数日は、「巣の中に頭」状態に近くなってきた。今日は、シジュウカラも盛んに鳴く。午後からはヒバリの声もよく聞こえる。いいなぁ、鳥の声。妻や息子が見ている野球中継の音は、小さくしていても耳障りなのに、私が音楽を聴いている最中にウグイスが鳴いても、ぜんぜん邪魔な感じがしない。右脳か左脳か、という問題なのかどうかは知らない。「実感」の前には、どんな理屈も意味がない。
 話は変わる。
 学校の授業で何かの文章を読んでいて、私が発問したとする。「どこに書いてあるか、根拠になる部分も教えてね」と尋ねて、それに生徒が「何ページの・・・」と答え始めた時、私は「いいぞ、いいぞ」と心の中で声援を送る。ところが、なぜか最も大切なところをひょいと跳ばして、次の部分と結びつけてしまったりする。もちろん、答えは明らかにおかしい。こういうことは珍しくない。どうして大切なところだけを避けるように答えるのだ?学力と言うよりも、何が大切かということに対する感性と言うか、認識力に問題がある、と思う。なぜそうなるのか分からない。
 コロナに関する政府の答弁を聞いていて、よく似た感覚を抱くことがある。もうさすがに最近は、マスク生活の弊害もよく言われるようになってきた。人間の感覚が変わってきたこと、それはまずいんじゃないか?みたいな話も時折耳にする。私はずっと前からそう言っている。コロナ感染による肺炎で80歳の老人が多少死ぬより、成長過程にある若者が、マスクその他の生活制限によって健全な社会性を身に付けられなくなる弊害の方がはるかに大きい。それこそが最も深刻な問題だ。だが、この期に及んでも、政府はそんな指摘を全然気にしている風ではない。1に感染者を出さないこと、2に経済へのダメージを抑えること、3以下は存在しない、といった感じだ。
 私は最近、読売新聞を高く評価している。急激なデジタル化の若者への悪影響について、読売の発信は非常に意欲的だ(→参考記事)。「意欲的だ」と書けば、いかにも「推進」を叫んでいるようだが、何しろ対象が「悪影響」なので、非常に健全な強い危機感・問題意識を持っている、ということである。
 実は、コロナに関しても、読売の反応は新聞各紙の中で最もまともだ。先月30日から今月4日まで、読売は5回に渡って「『コロナ警告』ゆらぐ対人関係」という連載をした。コロナによる生活制限が、人々の精神面にどのような影響を及ぼし、社会生活がどう変化しようとしているかを追った記事だ。なかなかよく書けていた。昨日からは「反響編」が始まった。「上」となっていたから、あと1回か2回掲載されるのだろう(今日の読売未見)。
 「反響編(上)」は、マスク生活についてだ。そこから、1歳10ヶ月の孫がいる65歳女性の声を引こう。

 「孫は生まれてから口元を覆った人ばかりの世界しか見ていない。笑ったり、怒ったりという感情表現が弱いようにも思う。政府は未来を担う子どもたちが健全な生活を送れるよう、しっかりと考えて欲しい。」

 まったくその通りだ。感情表現が育たないのは、本当に怖いことである。温暖化と同じくらい怖い。いや、それ以上かも知れない。だが、政府はこのことの重大性など認識できない。たぶん、お金にも権力にも直結しないからだ。生徒が、不思議と大切なところだけ飛ばすのと似ている。私が思うに、どうでもいいことは大切で、大切なことはどうでもいいことなのだ。なんだか変だ(政府側から見れば、平居は変だ)。そして読売新聞は偉い!